ニヒリズム・ナルシズムからの脱却を 佐藤優「新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇」
2013年 05月 13日
昨日の夕方、西友にいたら、「やっぱり花にしよう。鉢じゃなくて切り花に」。
お父さんがサエくらいの女の子と歩いていた。
お母さん、嬉しかっただろうな。
せんじつ紹介した「左巻 情勢分析篇」に次ぐ「右巻 日本の針路篇」。
2009年3月~13年4月、中央公論に連載された記事が中心、民主党政権誕生、3・11、尖閣事件、メドベージェフの「対日戦勝記念日」の制定などと並行した時評を読みながら、いろいろ勉強したり考えたり、勉強の方が多いかな。
前回も書いたが、なにげない新聞記事に隠された政権内部の問題・弱点や国際関係の機微を看取することが出来ていないことを思い知らされる。
これでも大学を出て社会人を半世紀近くやってきたと言えるのか、と。
アルバニアのことなんか考えたこともなかった。
筆者は現在(民主党政権当時)の政治に対するニヒリズムをヒトラーを生み出したニヒリズムに類比する。
柄谷行人の「世界史の構造」を引いて、資本=ネーション(民族)=ステート(国家)が一体になって、人々がそのなかに閉じ込められて”ぐるぐるまわって”いる現状を打開する、なにか(ⅹ)という超越性が必要だという。
その”なにか”にファシズム、人種差別主義など、とんでもないものが登場しないように俺たちは気をつけなければならないのだと思うが。
筆者は、”なにか”は合理主義、生命至上主義、個人主義(これらの三原理が3・11によって限界を露呈した)を乗り越える、日本人の「ををしさ」「大和心」のようなものと考えているようだ。
政治エリートたちをむしばんでいるナルシズムについて、
せんじつの民主党の反省会における菅の様子を見ると、依然として“見惚れている”なあ。
それを容赦しているようでは、民主党も懲りない政党と言わざるを得ないのが辛いところ。
菅総理に対する論評はにべもない。
福島第一に出かけて行ったこと、北方領土返還要求全国会議の席上で”アドリブ”でメドベージエフの国後島訪問を「許しがたい暴挙」と言ったこと、副総理のときに「沖縄は独立した方がいい」と喜納昌吉にいったこと、、などの致命的失策をあげて、
筆者は、ロシアの元国務長官・ブルブリスから、現在のロシアに三つのカテゴリーのエリートがいるという話を聴いたことから日本にも同じように三つのカテゴリーのエリートがいるという。
第一カテゴリーに属するのが、旧体制のエリート。
自民党、民主党の土建依存政治家や、人事に異常な関心があり、無責任体質が染みついた慇懃無礼な高級官僚。
第二カテゴリーは、偶然のエリート。
自民党の小泉チルドレン、民主党の小沢チルドレンなどポピュリズムの風で、たいした努力もせずに国会議員となった人たち。
菅氏も国家運営や外交に関する研鑽を怠ってきた偶然のエリートだ。
第三のカテゴリーは、未来のエリート。
世代で規定すべきではなく、品性とリテラシーの高い政治家、官僚、民間人だ。
そして
さあ、その見極める力が大切だ。
片言隻句にも注意深く監視していなければいけないのだろうか。
本書には政治エリートたちの、大きな国際政治の文脈を理解しないままに漏らした、ホンの一言や”良かれと思ってやった行動”が大きく国益を損なった例がいくつも挙げられる。
言った本人がそれを自覚していないばかりかナルシズムに酔っている。
菅の発言も然り、猪瀬が副知事時代に尖閣諸島の買い上げに寄付を募ると言い出したことなども、一触即発危険極まりない行動だ。
日本が新・帝国主義時代に生き残っていくうえでの大きな弱点は沖縄だと強調する。
沖縄の人々は古事記の神話を共有していない”亜民族”だ。
沖縄の人たちが本土の政治エリートたちに差別されているという感情は爆発寸前である。
筆者は、もはやオスプレイの撤去、日米地位協定の抜本的改正、普天間の辺野古移設の撤回などの
日本の本土の連中がタカをくくっているうちに、
中国が沖縄は決して日本古来の領土ではない、とか沖縄の独立への段階的道筋などについて人民日報などに論文を掲載している。
一方で安倍政権は「独立記念式典」を沖縄の抗議を無視する形で強行した。
韓国大統領は、慣例を破って日本に来る前に訪中を優先するという。
俺は佐藤の言うことを丸のみにはできないが、日本がこのままでは、袋小路に追い込まれていくことは避けられないという点では共感できる。
さればとて、憲法96条を先行改定するなどは毛頭認めるわけではない(佐藤がこの点についてどう考えているかは知らないが)。
むしろ、こういう状況だからこそ、日本の当面する根本問題を党利党略によらずにさまざまな観点からしっかりと議論・検討する必要があると思う。
そのためにも自民党草案にあるような表現の自由を制限する憲法改定などは絶対に認めるわけにはいかない。
中央公論新社
お父さんがサエくらいの女の子と歩いていた。
お母さん、嬉しかっただろうな。
2009年3月~13年4月、中央公論に連載された記事が中心、民主党政権誕生、3・11、尖閣事件、メドベージェフの「対日戦勝記念日」の制定などと並行した時評を読みながら、いろいろ勉強したり考えたり、勉強の方が多いかな。
前回も書いたが、なにげない新聞記事に隠された政権内部の問題・弱点や国際関係の機微を看取することが出来ていないことを思い知らされる。
これでも大学を出て社会人を半世紀近くやってきたと言えるのか、と。
アルバニアのことなんか考えたこともなかった。
日本の伝統を踏まえ、人間の心を動かし、力となり、行為を促す言葉を再発見しなくてはならない。正しい言葉を見出せば、ニヒリズムを克服し、東日本大震災からの復興が加速される。政治家の腹に落ちる言語に転換することが力不足のためにできないことを悩んでいる(2011・6・25)。
柄谷行人の「世界史の構造」を引いて、資本=ネーション(民族)=ステート(国家)が一体になって、人々がそのなかに閉じ込められて”ぐるぐるまわって”いる現状を打開する、なにか(ⅹ)という超越性が必要だという。
その”なにか”にファシズム、人種差別主義など、とんでもないものが登場しないように俺たちは気をつけなければならないのだと思うが。
筆者は、”なにか”は合理主義、生命至上主義、個人主義(これらの三原理が3・11によって限界を露呈した)を乗り越える、日本人の「ををしさ」「大和心」のようなものと考えているようだ。
菅総理を含む有力政治家、高級官僚は誰もが自らがもっとも聡明で美しいと考え、他者を軽蔑する。そして、社会全体にニヒリズムが蔓延し、国家が内側から腐食されていくのである。政治エリートに求められるのは、鏡に映した自分の姿に見とれることではなく、鏡に映っている醜い欠点を矯正する努力をすることだ。という。
せんじつの民主党の反省会における菅の様子を見ると、依然として“見惚れている”なあ。
それを容赦しているようでは、民主党も懲りない政党と言わざるを得ないのが辛いところ。
福島第一に出かけて行ったこと、北方領土返還要求全国会議の席上で”アドリブ”でメドベージエフの国後島訪問を「許しがたい暴挙」と言ったこと、副総理のときに「沖縄は独立した方がいい」と喜納昌吉にいったこと、、などの致命的失策をあげて、
市民運動家や野党政治家としての成功体験で菅氏が身につけた、<比較的小規模なシステムでの体験に基づいた直観>に過ぎない。この直観に基づいて行動することによって、菅氏は民主党内の権力闘争で小沢一郎氏に対して勝利することはできた。しかし、この経験と直観に頼っていては、東日本大震災後の危機から巨大で複雑なシステムである日本国家を救い出すことはできないのである。と書いたのは2011年4月の稿だ。
筆者は、ロシアの元国務長官・ブルブリスから、現在のロシアに三つのカテゴリーのエリートがいるという話を聴いたことから日本にも同じように三つのカテゴリーのエリートがいるという。
第一カテゴリーに属するのが、旧体制のエリート。
自民党、民主党の土建依存政治家や、人事に異常な関心があり、無責任体質が染みついた慇懃無礼な高級官僚。
第二カテゴリーは、偶然のエリート。
自民党の小泉チルドレン、民主党の小沢チルドレンなどポピュリズムの風で、たいした努力もせずに国会議員となった人たち。
菅氏も国家運営や外交に関する研鑽を怠ってきた偶然のエリートだ。
第三のカテゴリーは、未来のエリート。
世代で規定すべきではなく、品性とリテラシーの高い政治家、官僚、民間人だ。
そして
当面重要なのは、与野党を問わず、誰が未来のエリートとしての責務に堪えることができる政治家であるかを見極めることだ。そして、そのような政治家を国民、マスメデイア、有識者がそれぞれの立場から応援していくことが日本国家と日本人が生き残っていくために必要だという。
さあ、その見極める力が大切だ。
片言隻句にも注意深く監視していなければいけないのだろうか。
言った本人がそれを自覚していないばかりかナルシズムに酔っている。
菅の発言も然り、猪瀬が副知事時代に尖閣諸島の買い上げに寄付を募ると言い出したことなども、一触即発危険極まりない行動だ。
日本が新・帝国主義時代に生き残っていくうえでの大きな弱点は沖縄だと強調する。
沖縄の人々は古事記の神話を共有していない”亜民族”だ。
沖縄の人たちが本土の政治エリートたちに差別されているという感情は爆発寸前である。
筆者は、もはやオスプレイの撤去、日米地位協定の抜本的改正、普天間の辺野古移設の撤回などの
沖縄の要求を全面的に受け入れても、沖縄人の中央政府に対する信頼を回復することはできないであろう。沖縄の部分的な外交権回復を認め、沖縄の広範な自治を認める連邦制に近い国家体制への転換を行わないと、日本の国家統合を維持することができなくなる危険があるとまで言う。
日本の本土の連中がタカをくくっているうちに、
中国が沖縄は決して日本古来の領土ではない、とか沖縄の独立への段階的道筋などについて人民日報などに論文を掲載している。
一方で安倍政権は「独立記念式典」を沖縄の抗議を無視する形で強行した。
韓国大統領は、慣例を破って日本に来る前に訪中を優先するという。
さればとて、憲法96条を先行改定するなどは毛頭認めるわけではない(佐藤がこの点についてどう考えているかは知らないが)。
むしろ、こういう状況だからこそ、日本の当面する根本問題を党利党略によらずにさまざまな観点からしっかりと議論・検討する必要があると思う。
そのためにも自民党草案にあるような表現の自由を制限する憲法改定などは絶対に認めるわけにはいかない。
中央公論新社
Commented
by
zushi53 at 2013-05-13 17:56
東條英機も5.15や2.21の軍事クーデターによって生まれた偶然のエリートの一人ですね。
菅直人は石井紘基暗殺、小沢一郎疑獄の首謀者の一人とみています。エリートといえるかどうか。
菅直人は石井紘基暗殺、小沢一郎疑獄の首謀者の一人とみています。エリートといえるかどうか。
0
Commented
by
kuukau at 2013-05-13 20:04
責務に耐えうるような未来のエリート政治家を選べ、って言われても・・
政治家は権力を手にすると、目線は上へ上へと行き、約束を反故にするから信用できんとです。
政治家は権力を手にすると、目線は上へ上へと行き、約束を反故にするから信用できんとです。
Commented
by
saheizi-inokori at 2013-05-13 21:10
Commented
by
saheizi-inokori at 2013-05-13 21:12
Commented
by
sweetmitsuki at 2013-05-14 06:04
今どきの日本人は古事記なんて誰も読んでないでしょう。
著者がどういう思惑で古事記の神話を日本人のアイデンティティー(沖縄県民と比べて)としてるのかわかりませんけど、古事記というのは、決して天皇を讃えている神話ではないんです。
左翼はそうだと勘違いしてるから読まないし、右翼は、彼らの喜びそうな武勇伝が出てこないから、読んでも忘れてしまう。
多くの日本人にとっての古事記って、そんなもんじゃないのでしょうか。
では日本人のアイデンティティーとは何かというと、それはたとえば高速道路の合流するところで誰彼に指図されることなく暗黙のうちに交互に道を譲りあうような「お行儀の良さ」にあると思うんです。「和を以って貴しと為す」みたいな。ちょっとテレくさいんですけど。
それが著者のいう、日本人の「ををしさ」「大和心」のようなものなのでしょうか。
著者がどういう思惑で古事記の神話を日本人のアイデンティティー(沖縄県民と比べて)としてるのかわかりませんけど、古事記というのは、決して天皇を讃えている神話ではないんです。
左翼はそうだと勘違いしてるから読まないし、右翼は、彼らの喜びそうな武勇伝が出てこないから、読んでも忘れてしまう。
多くの日本人にとっての古事記って、そんなもんじゃないのでしょうか。
では日本人のアイデンティティーとは何かというと、それはたとえば高速道路の合流するところで誰彼に指図されることなく暗黙のうちに交互に道を譲りあうような「お行儀の良さ」にあると思うんです。「和を以って貴しと為す」みたいな。ちょっとテレくさいんですけど。
それが著者のいう、日本人の「ををしさ」「大和心」のようなものなのでしょうか。
Commented
by
saheizi-inokori at 2013-05-14 09:39
sweetmitsukiさん、私も古事記をちゃんと読んだわけではないけれど、日本人の源流として古事記神話があることを客観的に認めます。
琉球はそうではないということでしょう。
佐藤のいう「ををしさ」とは3・11のときに身の危険を顧みずフクイチの作業に従事する作業員、駆け付けた地方電力会社社員、自衛隊員、警察官、消防隊員などにみられるような「実践において、生命至上主義と個人主義を超克している」ような行為、「自分の命を投げ出しても、多くの人々の命を救うために誰かがやらなくてはならないことがある」と瞬間的に思い、行動する、思想即行動、行動即思想のようなことを指しているようです。
想定外の自然の脅威を超克する思想だと。
究めて文学的です。
琉球はそうではないということでしょう。
佐藤のいう「ををしさ」とは3・11のときに身の危険を顧みずフクイチの作業に従事する作業員、駆け付けた地方電力会社社員、自衛隊員、警察官、消防隊員などにみられるような「実践において、生命至上主義と個人主義を超克している」ような行為、「自分の命を投げ出しても、多くの人々の命を救うために誰かがやらなくてはならないことがある」と瞬間的に思い、行動する、思想即行動、行動即思想のようなことを指しているようです。
想定外の自然の脅威を超克する思想だと。
究めて文学的です。
Commented
by
saheizi-inokori at 2013-05-14 23:35
Commented
by
c-khan7 at 2013-05-15 11:56
様々な問題で、議論を尽くして、、とか、もっと話合って。。とか。
言われますが、どこで、誰が、どんな議論をしていて、その話し合いでどんな決着がついたのか。それは尽くされた結果なのか。
そのあたりがよく、わかりません。
言われますが、どこで、誰が、どんな議論をしていて、その話し合いでどんな決着がついたのか。それは尽くされた結果なのか。
そのあたりがよく、わかりません。
Commented
by
saheizi-inokori at 2013-05-15 12:59
by saheizi-inokori
| 2013-05-13 15:20
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
Trackback
|
Comments(10)