愛は時空を超える? ミハイル・シーシキン「手紙」
2013年 01月 29日
二人の手紙は、恋する喜び、離れて暮らす喪失感にみたされ、相互に幼少時代からの思い出が語られる、彼らの過去の断片が俺の胸をうつ。
若い恋人たちの幼いけれどきらきらまぶしいような手紙がだんだん深みを帯びてくる。
ワロージャは中国義和団に対する連合国に属して中国を北上する。
酸鼻を究める戦場の描写、戦争の実態を伝えるという義務感が彼を駆り立てる。
大国による中国への侵略の実相。
兵たちはどちらが勝つかではなく、生きて帰れるか、苦しまずに死ねるかがすべて。
ワロージャは戦死する。
戦死してもワロージャの手紙は延々と続く。
あの頃、気にも留めなかったいろいろのことがどれほど得がたく幸せだったかを覚る。
四肢を失うくらいなら即死を望んでいたのが、どうあっても生きて還りサーシャに会い、生を全うしたいと思うようになる。
サーシャは100年後の現代に生きている。
サーシャが成長するにつれて遭遇する人生の悲喜劇は、細部にわたって描かれるだけに、かえって古今東西の人間が経験しこれからも経験するような普遍性に富んでいる。
人生はこういう細部から成り立っているのだから。
そして、その一つひとつに俺は感動する。
赦される罪は無いこの言葉のどこに句読点を打つか、それがサーシャに決められない。
ところで、時空を隔てたお互いの手紙は読まれていたのだろうか。
届かないのは、書かれなかった手紙だけだワロージャはそう書くのだが。
崩壊した時の流れは、二人が困難を乗り越え、二人の精神が充分に成長することによって、二人が再会した時に、元に戻る。
不可解な設定に引っかかりながらも、ひとつひとつの手紙に描かれることどもが、俺にも懐かしさ・苦しさをもって覚えのあるような人生の真実に富んでいるので読むのをやめることができない。
そうしてみれば、本書に書かれているすべてのことに俺も責任があるのかもしれない。
なかんずく中国を侵略した日本軍のことを忘れてはいけないのだろう。
死が語られ描写され意識され畏れられ望まれ忘れられ、、。
僕らがいなきゃ時間は存在しないだろ。つまり僕らは一種の時間の存在形態でしかない。時間の担い手であると同時に、時間の発生因子でもある。要するに時間とは宇宙の病気みたいなものなんだ。宇宙が僕らに打ち克てば、僕らは消え、宇宙の時間病は治る。俺たちは死ぬことで宇宙の調和に貢献できるというのだろうか。
宇宙―コスモスってのは元々、ギリシャ語で秩序や美や調和を表す言葉だろ。死ってのは、総合的な美しい調和の世界が、混沌とした僕たちという存在を拒んだ結果なんだ。
人間は、昔も今もこれからも同じように―光と温もりの塊でありつづけるだろう「人間とは光と温もりの塊」、これが作者のメッセージだ。
もう一度読もうか、それには一旦図書館に返して、、迷っている。
訳 奈倉 有里
新潮クレストブックス
夢の中でかしら・・
蕗の薹を採ってきました。リンクさせていただいてもよろしいよね?
輪廻転生しても自覚はないのでしょうから、、自覚があったら大変か^^。