新自由主義経済学と訣別し脱成長主義へ 佐伯啓思「経済学の犯罪」
2012年 09月 13日
自民党、民主党の代表候補が顔をそろえた。
橋下も「第三極」などとしゃしゃり出ている。
しかしどれもこれも新しさはない。
新しくないどころか「日本維新の会」は新自由主義だし、安倍は小泉改革の継承などととんでもないことを掲げて、むしろ後戻りだ。
問われているのは、国や国民がどういう考え方・価値観を基本として生きていくのか、ではないか。
すでに破たんしていることが明らかな新自由主義などではない、まったく新しい価値観を提示する人・党は現れないものかと思う。
そんな気持ちに答えてくれるような本がこれだ。
かつては近代経済学と言ってもいろんな学派があった。
今は新自由主義(新古典派・シカゴ学派)がほとんどすべてになってしまった。
科学というより信念みたいな、イデオロギーが教科書になって、あのケインズでさえ無視されている。
悪名高き、世界のデストロイヤー・新自由主義=市場原理主義が権力と結びつき、否、国家を隷属させて各国の政策を左右している。
その結果がリーマンショックであり、EU危機であり、日本をはじめ各国内の格差拡大、中間層の消滅、出口の見えないデフレとなっている。
新自由主義という名の”経済学”による進行中の犯罪だ。
本書は小泉改革や竹中平蔵の言葉がいかに誤謬に満ちたものであるか、その結果を統計図表も使って明らかにしている。
リーマンショック以後、世界経済が少しは持ち直したかに見えるのは、共産主義体制である中国が世界を支えたのだ。
この20数年のグローバリゼーションで最も経済発展を遂げたのは中国、ロシア、インド、ブラジルなど決して模範的な市場主義経済の国ではない。
TPP推進論者がいうように自由貿易を標榜する国でもない。
冷戦が終わって自由経済が勝利した後の世界で、グローバル資本主義の恩恵にもっともあずかったのは自由主義を唱えた国ではなく共産主義国なのだ。
市場をしっかりとコントロールする国家の力が必要だったのだ。
逆に小泉改革は愚かにも国家の規制・介入を排除して市場の自由に任せようとした。
新自由主義的政策はアメリカにおいてはインフレ対策を念頭に行われたのにデフレの日本に導入された。
アメリカがITとか金融を国際的な競争力を持たせようとしたような具体的な戦略もないままに。
資本主義が爛熟するとモノの生産、実質経済の成長は頭打ちになる。
需要の伸びが止まるからだ。
それなのにシカゴ学派=新自由主義学派の人たちは生産性を上げて供給を増やせば需要はついてくると妄信している。
「国富論」のアダム・スミスやケインズはグローバルな資本の動き・グローバル市場よりも、国内の生産基盤を確保し、国内の雇用確保と需要を満たすことを重要視したのだ。
労働こそが価値の源泉であって貨幣が価値を生むのではない。
金融資本が高等数学を駆使して作り上げるデリバテイブなどの金融商品は不確実な将来に賭けている。
そのとき計算される”リスク”は、3・11の地震や津波を想定外としたように、過去の事例を基に統計的分布で計算したものでしかないから、リーマンショックのように大企業が連鎖的に破綻することは計算されていない。
不確実性をリスクと混同した誤謬だ。
貨幣の成り立ちはどこにあるのか。
経済行為の原型は二者間の物々交換ではなくて三者(以上)間の貨幣を媒介とする取引にある。
貨幣ありきなのだ(本書ではマリノフスキー、モース、バタイユ、レヴィ・ストロース、ヴェヴレン、、贈与論や記号論などを動員して貨幣の意味を探る、おもしろい)。
がんらい貨幣は全てが消費されずに、将来の不確実性に備えて一部が蓄えられる。
それは貨幣の過剰につながり、総生産量が総需要に対して過剰となり、結果としてデフレになるか、総生産量が低下する。
にもかかわらず、経済が成長し続けてきたのは技術革新によって生産性が向上したか労働力が増加してきたからだが、今やその双方が期待しにくい。
よしんば技術革新により供給能力が増加してもそれを吸収するほどの消費欲望がなくなっている。
金融緩和を行っても先行きに不安があるから実物市場への投資は行われず、その分が金融市場に流れ込み、やがてはバブルとなる。
消費は増えず供給過剰によるデフレが進行する。
これではいけないとさらに金融緩和し、生産性向上をめざし(賃金ダウン、雇用カット)、公共部門の賃金カットなどが行われ、それは一層の有効需要の低下をもたらす。
アメリカの経済を引っ張ったITや情報をみても、それは大きな雇用創出にはつながらず、ツイッターがいくら普及してもGDPが増えるわけではない。
このままでは各国とも、「景気回復」「健全財政」「金融市場の安定」の三つの課題を同時に達成することはほとんど不可能になっている。
「市場」は緊縮財政を要求し、「グローバル化」は一国だけの金融政策をほぼ不可能にしてしまった。
そこで輸出振興のための為替切り下げ競争へ走るか、自由貿易協定へ乗り出す。
それは
その結果は、経済の長期的停滞、農業などの特定分野へのひずみ、労働配分率のさらなる低下などとなる。
それは「民意」の不満が絶えず政治にぶつけられて政治の不安定化を招来する。
民主主義とグローバル経済は両立しえない。
大衆の不満は独裁を生み出す蓋然性がある。
グローバル経済のレベルを落とすべきだ。
各国の社会構造、文化、経済システムの多様性を認め、それぞれの国が国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やす。
国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食糧の自給率を引き上げ、国際的な投機的金融に翻弄されないような金融構造を作る、「ネーション・エコノミー」の強化が求められる。
スミスやケインズの考えの伝統に立ち戻ることが必要だ。
今までの経済学に対する考え方は「希少性の原理」を基本としている。
それは
これからは「過剰性の原理」、すなわち
「市場」が人びとの欲望の競合を生み出し「希少性」を生み出してきた。
本書の副題が「希少性の経済から過剰性の経済へ」であるゆえんだ。
今、必要なのは市場の効率性ではなく、公共的な「善きもの」を実現する社会、そのための「公共計画」だ。
私的な物的富を積み上げるのではなく、多様な知識の生産やその活用の仕組み、教育、医療や地域における人々の結びつきをシステムとして整備する「公共計画」。
自動車や医者や病院を選択する(市場主義)のではなく交通システムや医療システムを選択する。
それは市場ではできない「社会的価値」の選択であり「知的作業」に属する課題である。
「脱成長主義の社会」へ向けて舵を切ること、低成長を前提に「成長主義」「効率主義」「能力主義」という市場主義の価値からの転換をはかること。
少子高齢化へ向けた社会、社会生活の安全性と安定性の確保、文化や教育や地域という「人づくりのインフラストラクチャー」へ配慮した社会。
効率性、利潤原理などの「日本維新の会」が声高に叫ぶのとは真逆の、まさに『価値観の転換』が必要なのだ。
日本の文化や生活に根ざし、歴史に掉さした「日本の価値」をもう一度取り戻すことが必須だと筆者はいう。
三党合意の維持、維新の会との距離、くだらないものを代表選の争点にせず、本書にあるような新しい価値観をめぐっての議論があらまほしい。
新書ではあるが、新自由主義の犯罪・危険性、アダム・スミスやケインズの再吟味など、ちょっとした経済学史のようで読みごたえがある。
橋下も「第三極」などとしゃしゃり出ている。
しかしどれもこれも新しさはない。
新しくないどころか「日本維新の会」は新自由主義だし、安倍は小泉改革の継承などととんでもないことを掲げて、むしろ後戻りだ。
問われているのは、国や国民がどういう考え方・価値観を基本として生きていくのか、ではないか。
すでに破たんしていることが明らかな新自由主義などではない、まったく新しい価値観を提示する人・党は現れないものかと思う。
そんな気持ちに答えてくれるような本がこれだ。
今は新自由主義(新古典派・シカゴ学派)がほとんどすべてになってしまった。
科学というより信念みたいな、イデオロギーが教科書になって、あのケインズでさえ無視されている。
悪名高き、世界のデストロイヤー・新自由主義=市場原理主義が権力と結びつき、否、国家を隷属させて各国の政策を左右している。
その結果がリーマンショックであり、EU危機であり、日本をはじめ各国内の格差拡大、中間層の消滅、出口の見えないデフレとなっている。
新自由主義という名の”経済学”による進行中の犯罪だ。
本書は小泉改革や竹中平蔵の言葉がいかに誤謬に満ちたものであるか、その結果を統計図表も使って明らかにしている。
リーマンショック以後、世界経済が少しは持ち直したかに見えるのは、共産主義体制である中国が世界を支えたのだ。
この20数年のグローバリゼーションで最も経済発展を遂げたのは中国、ロシア、インド、ブラジルなど決して模範的な市場主義経済の国ではない。
TPP推進論者がいうように自由貿易を標榜する国でもない。
冷戦が終わって自由経済が勝利した後の世界で、グローバル資本主義の恩恵にもっともあずかったのは自由主義を唱えた国ではなく共産主義国なのだ。
市場をしっかりとコントロールする国家の力が必要だったのだ。
逆に小泉改革は愚かにも国家の規制・介入を排除して市場の自由に任せようとした。
新自由主義的政策はアメリカにおいてはインフレ対策を念頭に行われたのにデフレの日本に導入された。
アメリカがITとか金融を国際的な競争力を持たせようとしたような具体的な戦略もないままに。
需要の伸びが止まるからだ。
それなのにシカゴ学派=新自由主義学派の人たちは生産性を上げて供給を増やせば需要はついてくると妄信している。
「国富論」のアダム・スミスやケインズはグローバルな資本の動き・グローバル市場よりも、国内の生産基盤を確保し、国内の雇用確保と需要を満たすことを重要視したのだ。
労働こそが価値の源泉であって貨幣が価値を生むのではない。
金融資本が高等数学を駆使して作り上げるデリバテイブなどの金融商品は不確実な将来に賭けている。
そのとき計算される”リスク”は、3・11の地震や津波を想定外としたように、過去の事例を基に統計的分布で計算したものでしかないから、リーマンショックのように大企業が連鎖的に破綻することは計算されていない。
不確実性をリスクと混同した誤謬だ。
経済行為の原型は二者間の物々交換ではなくて三者(以上)間の貨幣を媒介とする取引にある。
貨幣ありきなのだ(本書ではマリノフスキー、モース、バタイユ、レヴィ・ストロース、ヴェヴレン、、贈与論や記号論などを動員して貨幣の意味を探る、おもしろい)。
がんらい貨幣は全てが消費されずに、将来の不確実性に備えて一部が蓄えられる。
それは貨幣の過剰につながり、総生産量が総需要に対して過剰となり、結果としてデフレになるか、総生産量が低下する。
にもかかわらず、経済が成長し続けてきたのは技術革新によって生産性が向上したか労働力が増加してきたからだが、今やその双方が期待しにくい。
よしんば技術革新により供給能力が増加してもそれを吸収するほどの消費欲望がなくなっている。
金融緩和を行っても先行きに不安があるから実物市場への投資は行われず、その分が金融市場に流れ込み、やがてはバブルとなる。
消費は増えず供給過剰によるデフレが進行する。
これではいけないとさらに金融緩和し、生産性向上をめざし(賃金ダウン、雇用カット)、公共部門の賃金カットなどが行われ、それは一層の有効需要の低下をもたらす。
アメリカの経済を引っ張ったITや情報をみても、それは大きな雇用創出にはつながらず、ツイッターがいくら普及してもGDPが増えるわけではない。
今日の先進国の資本主義においてはもはや高度な成長は不可能である。にもかかわらず成長を続けなければ経済は破綻しかねない。現在の経済学が陥っているディレンマなのだ。
このままでは各国とも、「景気回復」「健全財政」「金融市場の安定」の三つの課題を同時に達成することはほとんど不可能になっている。
「市場」は緊縮財政を要求し、「グローバル化」は一国だけの金融政策をほぼ不可能にしてしまった。
そこで輸出振興のための為替切り下げ競争へ走るか、自由貿易協定へ乗り出す。
それは
グローバル競争をいっそう激化する変形された「帝国主義」である。
その結果は、経済の長期的停滞、農業などの特定分野へのひずみ、労働配分率のさらなる低下などとなる。
それは「民意」の不満が絶えず政治にぶつけられて政治の不安定化を招来する。
民主主義とグローバル経済は両立しえない。
大衆の不満は独裁を生み出す蓋然性がある。
グローバル経済のレベルを落とすべきだ。
各国の社会構造、文化、経済システムの多様性を認め、それぞれの国が国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やす。
国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食糧の自給率を引き上げ、国際的な投機的金融に翻弄されないような金融構造を作る、「ネーション・エコノミー」の強化が求められる。
スミスやケインズの考えの伝統に立ち戻ることが必要だ。
それは
無限に膨らむ人間の欲望に対して資源は希少である。したがって、市場競争によって資源配分の効率性を高め、技術革新などによって経済成長を生み出すことが必要である。というものであり、間違っている。
これからは「過剰性の原理」、すなわち
成熟社会においては、潜在的な生産力が生み出すものを吸収するだけの欲望が形成されない。それゆえ、この社会では生産能力の過剰性をいかに処理するかが問題となってくる。「効率性」「競争」「成長」などは事態を救済する価値とはならない。
「市場」が人びとの欲望の競合を生み出し「希少性」を生み出してきた。
本書の副題が「希少性の経済から過剰性の経済へ」であるゆえんだ。
私的な物的富を積み上げるのではなく、多様な知識の生産やその活用の仕組み、教育、医療や地域における人々の結びつきをシステムとして整備する「公共計画」。
自動車や医者や病院を選択する(市場主義)のではなく交通システムや医療システムを選択する。
それは市場ではできない「社会的価値」の選択であり「知的作業」に属する課題である。
「脱成長主義の社会」へ向けて舵を切ること、低成長を前提に「成長主義」「効率主義」「能力主義」という市場主義の価値からの転換をはかること。
少子高齢化へ向けた社会、社会生活の安全性と安定性の確保、文化や教育や地域という「人づくりのインフラストラクチャー」へ配慮した社会。
効率性、利潤原理などの「日本維新の会」が声高に叫ぶのとは真逆の、まさに『価値観の転換』が必要なのだ。
日本の文化や生活に根ざし、歴史に掉さした「日本の価値」をもう一度取り戻すことが必須だと筆者はいう。
新書ではあるが、新自由主義の犯罪・危険性、アダム・スミスやケインズの再吟味など、ちょっとした経済学史のようで読みごたえがある。
経済学って私には本当に難しいです。
>日本の文化や生活に根ざし、歴史に掉さした「日本の価値」をもう一度取り戻すことが必須だと筆者はいう。
これですね。
この時期に来て、政局はまたまたがっかりの連続です。
下から2枚目の雲の美しいこと!
>日本の文化や生活に根ざし、歴史に掉さした「日本の価値」をもう一度取り戻すことが必須だと筆者はいう。
これですね。
この時期に来て、政局はまたまたがっかりの連続です。
下から2枚目の雲の美しいこと!
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Commented
by
saheizi-inokori at 2012-09-14 09:31
tona さん、雲になりたい^^!
Commented
at 2012-09-14 20:54
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
saheizi-inokori at 2012-09-14 22:37
Commented
by
c-khan7 at 2012-09-16 00:13
木の上の3本雲が「何雲」なのか、すごく気になります。
Commented
by
saheizi-inokori at 2012-09-16 08:00
c-khan7 さん、傘雲、見てのとおり^^。
東京で見かけたのは久しぶりでした。
東京で見かけたのは久しぶりでした。
by saheizi-inokori
| 2012-09-13 20:03
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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