フクシマに通じる原爆製造における科学者の責任 保阪正康「日本の原爆 その開発と挫折の道程」
2012年 06月 30日
1944年6月「あ号作戦」の失敗、7月サイパン陥落により、米軍は日本本土爆撃が容易になる。
圧倒的劣勢を乾坤一擲、覆すために藁にもすがる、その藁が原爆の開発製造だった。
陸軍は理研の仁科芳雄研究室に、海軍は京都大学の荒勝文策研究室に、すなわち縦割りで原爆の研究開発を急がせる。
いくら急がされてもウラン鉱石探しから始まる原爆開発は到底間に合わないことは仁科たちの共通理解だった。
それなのに軍の意向を受けて研究に勤しんだのは、予算確保と学問のレベル向上という思いもあっただろうが、敗戦必死の国を救うという気持ちもあったのではないかと保阪はいう。
戦時中の原爆開発の実態を多くの関係者にインタビューし、資料にあたって明らかにした労作だ。
当時も戦後もずっと原爆開発にかかわることは公にされなかったし、それに携わった科学者の姿勢が問題になったこともなかった。
”マッチ箱一個で都市が吹き飛ぶ”、実際にはなかった田中館愛橘議員の貴族院における発言が流布して、知らぬ間に原爆に対する恐怖が日本社会に”用意”された。
1945年8月6日、広島に落ちた強力な爆弾が原爆であることはアメリカは公にしたが日本政府・軍は認めず天皇もそのことを知らされなかった。
しかし、仁科などは当然、それが原爆であることがわかった。
仁科たちが広島を爆撃したのが原爆であることをはっきりと軍指導部に伝えていたら、、、。
当時思想犯として取り調べを受けていた武谷三男は、その前7月にポツダム宣言の内容を新聞で読んだときに、『吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用』という言葉からすぐにアメリカが原爆を持ったことが分かったという、
仁科たちはそうしなかったし、(ポツダム宣言案を読めば同じことが分かったはず)、広島のあとも原爆であることを公言しなかった。
保阪は
そして長崎にも原爆が落とされる。
1946年、アメリカで生まれた原子科学者緊急委員会議長に選ばれたアインシュタインの言葉、
国際的なメッセージとして、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマと並列するのは許せない。
前二者はアメリカが加害者であり、フクシマは日本政府、東電が加害者、国内問題だ。
保阪はこの点を強調する。
ヒロシマ・ナガサキと異なって、原爆製造とフクシマには共通点が見られる。
その一つは、科学者たちの姿。
それは科学それ自体への興味から出発し、予算と研究の自由さえ確保できればそこに閉じこもってしまう。
次に、原爆製造も原発推進もともに、その意味は、「聖戦完遂」「一発で町を吹き飛ばす爆弾」「平和利用」「生活の向上」「電力エネルギーの供給」、、その時代の要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けていた。
さらに、原爆製造では福島県石川町の中学生が足を血だらけにしてウラン鉱石を掘らされ、原発では七次八次の下請け労働者が「死をも恐れぬ」役を背負わされている。
どちらでも「弱者」が大義の犠牲の役割を与えられている。
そしてフクシマには、今この時代に生きている「われわれ」そのものの責任がある。
とくに幼児や少年少女、次の時代の人たちへの放射能障害の危険。
原爆製造は完成しなかったために、人類史の上で、加害者にはならずに済んだ。
しかし原発事故ではそうはいかない。
圧倒的劣勢を乾坤一擲、覆すために藁にもすがる、その藁が原爆の開発製造だった。
陸軍は理研の仁科芳雄研究室に、海軍は京都大学の荒勝文策研究室に、すなわち縦割りで原爆の研究開発を急がせる。
いくら急がされてもウラン鉱石探しから始まる原爆開発は到底間に合わないことは仁科たちの共通理解だった。
それなのに軍の意向を受けて研究に勤しんだのは、予算確保と学問のレベル向上という思いもあっただろうが、敗戦必死の国を救うという気持ちもあったのではないかと保阪はいう。
当時も戦後もずっと原爆開発にかかわることは公にされなかったし、それに携わった科学者の姿勢が問題になったこともなかった。
”マッチ箱一個で都市が吹き飛ぶ”、実際にはなかった田中館愛橘議員の貴族院における発言が流布して、知らぬ間に原爆に対する恐怖が日本社会に”用意”された。
1945年8月6日、広島に落ちた強力な爆弾が原爆であることはアメリカは公にしたが日本政府・軍は認めず天皇もそのことを知らされなかった。
しかし、仁科などは当然、それが原爆であることがわかった。
仁科たちが広島を爆撃したのが原爆であることをはっきりと軍指導部に伝えていたら、、、。
あのとき自分が仁科先生の傍にいたなら、すぐにポツダム宣言受諾を軍事指導者たちに伝えるよう、私は進言したと思いますよ。そうすれば広島も長崎も止められたのにと考えることはありますよと語ったという。
仁科たちはそうしなかったし、(ポツダム宣言案を読めば同じことが分かったはず)、広島のあとも原爆であることを公言しなかった。
保阪は
科学者たちに真実を述べる勇気が問われたのであり
科学が常に政治に抑圧されてきたという歴史の繰り返しであると書く。
そして長崎にも原爆が落とされる。
解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました。かくてわれわれは、比類のない破滅にむかって押し流されています。朝永振一郎はこういう。
この巨大な力を解放したわれわれ科学者は、人類の利益のために、そして人間性を破壊しないように、原子を管理すべき、この世界の生死を決める闘争における、圧倒的な責任を背負っています。
科学者の任務は、法則の発見で終わるものではなく、それの善悪両面の影響の評価と、その結果を人々に知らせ、それをどう使うかの決定を行うとき、判断の誤りをなからしめるところまで及ばねばならぬことになる。アメリカに依存した日本の原子力発電の開発利用における科学者はアインシュタインや朝永の期待を裏切り、主体性を放棄して、ひたすら”傭兵”となったのではないかと保阪はいう。
前二者はアメリカが加害者であり、フクシマは日本政府、東電が加害者、国内問題だ。
保阪はこの点を強調する。
ヒロシマ・ナガサキと異なって、原爆製造とフクシマには共通点が見られる。
その一つは、科学者たちの姿。
それは科学それ自体への興味から出発し、予算と研究の自由さえ確保できればそこに閉じこもってしまう。
次に、原爆製造も原発推進もともに、その意味は、「聖戦完遂」「一発で町を吹き飛ばす爆弾」「平和利用」「生活の向上」「電力エネルギーの供給」、、その時代の要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けていた。
さらに、原爆製造では福島県石川町の中学生が足を血だらけにしてウラン鉱石を掘らされ、原発では七次八次の下請け労働者が「死をも恐れぬ」役を背負わされている。
どちらでも「弱者」が大義の犠牲の役割を与えられている。
そしてフクシマには、今この時代に生きている「われわれ」そのものの責任がある。
とくに幼児や少年少女、次の時代の人たちへの放射能障害の危険。
原爆製造は完成しなかったために、人類史の上で、加害者にはならずに済んだ。
しかし原発事故ではそうはいかない。
今後、東京電力の原発事故をどのように収束させるか、原子力との関係を再構築し得るのか、日々の時間の意味がとわれているのではなかろうか新潮社
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minmei316 at 2012-06-30 18:44
ここへ来るといつも勉強させてもらってます
ほんと、お月謝を払いたいぐらい・・・
ほんと、お月謝を払いたいぐらい・・・
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saheizi-inokori at 2012-06-30 22:20
minmei316さん、口座番号をお知らせしましょうか^^?
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蛸
at 2012-07-01 14:45
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saheizi-inokori at 2012-07-01 17:37
蛸さん、立ち読みにはちょっと時間がかかりそうです^^。
by saheizi-inokori
| 2012-06-30 12:04
| 今週の1冊、又は2・3冊
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