すべる一之輔 穢す平治 怖い落語家の道 第528回落語研究会
2012年 06月 28日
昨日書いた↓「落語を聴かなくても人生は生きられる」のなかの森卓也「上方落語・桂枝雀」にある一節。
90年、朝日放送ラジオ「枝雀五夜」で
森が80年にインタビューしたときに、大うけにウケていた小米時代のことを枝雀は
一之輔が”長すぎる「らくだ」をやった”真打披露興行の口上で権太楼が「真打になるとこれからは裏双六ともいうべきなのが私たち噺家の世界」といった。
行きつ戻りつ、休みつ、なかなか上がりにならないということだろう。
サラリーマン人生、体力気力が衰えてもなんとか定年までたどり着いて隠居になった俺とは大違い。
それをまざまざと感じたのがこないだの落語研究会。
二番目に上がった一之輔「青菜」
長井好弘いわく、一之輔の、”現時点での夏の代表作”、真打になってすぐの落語研究会、満を持して登場。
「真打になりましたんでよろしくお願いします」と神妙な挨拶をして、すぐにネタに入る。
ところが、最初の方のギャグ(中身は忘れた、程度の、しかし一之輔らしい)で客席がほとんど反応なし。
すべった。
小三治の、権太楼の、「青菜」のその日の良しあしをいうような客たちには通じなかった”面白さ”。
後半、すこし調子を戻したとはいえ、あの小三治や権太楼の圧倒的な爆笑には程遠い。
彼らと比べるのは酷というものだが、爆笑ということだけなら、ここまでの一之輔はひけを取らずに突っ走ってきたはずだ。
ことし一月、二つ目として落語研究会でやった「初天神」、このときは凧揚げまでやって(花形演芸会ではやらなかった)ウケていたのだから、どうやら客のせいではなくて一之輔の側に原因があるようだ。
枝雀いうところの↑”もっとおもしろく”病、初期症状?
落語家なら誰しもがかかる病なんだろうが。
たしかに”裏双六”が始まった。
大器・逸材・一之輔、辛抱して頑張ってほしい。
他に台所鬼〆「芋俵」
平治「幽霊の辻」
文治襲名を控えている者として恥ずべき高座。
枝雀や権太楼の面影、それも残骸みたいなのがつぎはぎ。
マクラの段階から早く終わることばかり念じていた。
「ドスケベの一朝とその息子・一之輔(人身御供になる)」を登場させる、それだけでシャレとか粋とは無縁の品のなさを感じた。
救いは仲入り後、扇遊「巌流島」
師匠の俳句、東京やなぎ句会のこと、平治のマクラでいじられたことにひっかけて「どうせ私は足袋を隠すようなひねくれ者ですから師匠たちのような素直な句を作れません、、(平治のカラカイを)本気にする方がいらっしゃる」、気の毒に言わなくてもいいことまで言わされて、、いくつかの俳句を引いて、「さあことだ 馬のションベン渡し舟」川柳をきっかけにネタに入る。
よかったけれど、平治のまいた悪臭が休憩後も漂っていたかのようで、ほんとならもっといいのに、と思いながら聴いていた。
喬太郎「錦の舞衣(上)」
イタリアの戯曲「ラ・トスカ」を圓朝が落語にしたという代物。
「ラ・トスカ」1887年パリで初演、オペラ「トスカ」1900年、ローマ初演、、そして1889年に圓朝が「錦の舞衣」を発表しているのは、なんとも凄い。
50分の長講、飽きはしなかった、が、、。
何回も落語研究会に来ているが稀に見るつまらない会だった。
90年、朝日放送ラジオ「枝雀五夜」で
小米(枝雀の若いころの名前)時代の「饅頭こわい」の録音を流したら、枝雀「・・・・うまいな」とつぶやき、今まで自分がしてきたことは何やったんやろ、と、しばらく悩んでいたという。枝雀50歳、鬱病―本人いわく<死ぬのがこわい>病ー再発の少し前か。
森が80年にインタビューしたときに、大うけにウケていた小米時代のことを枝雀は
「もっと面白く」のもっとに力が入りすぎていた。こんなに面白いのに、なぜわかってくれないのか、という思いが先走り、内容は面白可笑しいこと、つまり緩和なのに、口調が緊張になっていたと自己分析したそうだが、それから10年後に「うまいな」というのが辛いといえば辛いところ。
行きつ戻りつ、休みつ、なかなか上がりにならないということだろう。
サラリーマン人生、体力気力が衰えてもなんとか定年までたどり着いて隠居になった俺とは大違い。
それをまざまざと感じたのがこないだの落語研究会。
長井好弘いわく、一之輔の、”現時点での夏の代表作”、真打になってすぐの落語研究会、満を持して登場。
「真打になりましたんでよろしくお願いします」と神妙な挨拶をして、すぐにネタに入る。
ところが、最初の方のギャグ(中身は忘れた、程度の、しかし一之輔らしい)で客席がほとんど反応なし。
すべった。
いつも、うけるんだけどな思わず漏らす。
小三治の、権太楼の、「青菜」のその日の良しあしをいうような客たちには通じなかった”面白さ”。
後半、すこし調子を戻したとはいえ、あの小三治や権太楼の圧倒的な爆笑には程遠い。
彼らと比べるのは酷というものだが、爆笑ということだけなら、ここまでの一之輔はひけを取らずに突っ走ってきたはずだ。
ことし一月、二つ目として落語研究会でやった「初天神」、このときは凧揚げまでやって(花形演芸会ではやらなかった)ウケていたのだから、どうやら客のせいではなくて一之輔の側に原因があるようだ。
枝雀いうところの↑”もっとおもしろく”病、初期症状?
落語家なら誰しもがかかる病なんだろうが。
たしかに”裏双六”が始まった。
大器・逸材・一之輔、辛抱して頑張ってほしい。
平治「幽霊の辻」
文治襲名を控えている者として恥ずべき高座。
枝雀や権太楼の面影、それも残骸みたいなのがつぎはぎ。
マクラの段階から早く終わることばかり念じていた。
「ドスケベの一朝とその息子・一之輔(人身御供になる)」を登場させる、それだけでシャレとか粋とは無縁の品のなさを感じた。
師匠の俳句、東京やなぎ句会のこと、平治のマクラでいじられたことにひっかけて「どうせ私は足袋を隠すようなひねくれ者ですから師匠たちのような素直な句を作れません、、(平治のカラカイを)本気にする方がいらっしゃる」、気の毒に言わなくてもいいことまで言わされて、、いくつかの俳句を引いて、「さあことだ 馬のションベン渡し舟」川柳をきっかけにネタに入る。
よかったけれど、平治のまいた悪臭が休憩後も漂っていたかのようで、ほんとならもっといいのに、と思いながら聴いていた。
喬太郎「錦の舞衣(上)」
イタリアの戯曲「ラ・トスカ」を圓朝が落語にしたという代物。
「ラ・トスカ」1887年パリで初演、オペラ「トスカ」1900年、ローマ初演、、そして1889年に圓朝が「錦の舞衣」を発表しているのは、なんとも凄い。
50分の長講、飽きはしなかった、が、、。
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豆ママ
at 2012-06-28 20:01
x
>何回も落語研究会に来ているが稀に見るつまらない会だった。
お察しいたします。
お察しいたします。
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saheizi-inokori at 2012-06-28 21:43
豆ママさん、お察しいただけますか、とほほ^^。
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maru33340 at 2012-06-28 23:05
佐平次さん
ここは少し落語はお休みされては…
ここは少し落語はお休みされては…
ネットで枝雀のプロファイル等を調べ、ついでにYouTubeで「上燗屋」を楽しみました。幸福だった時代の幸福な寄席風景でした。枝雀自身は呻吟しながら、客には罪のない笑いを提供していたのですねぇ。
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saheizi-inokori at 2012-06-29 11:05
小言幸兵衛さん、平治はプレッシャー以前の問題、品性・センスが悪いです。
今夜も一之輔、末広で小三治聴く方がいいのかもしれないが切符が惜しくて、、ケチだなあ。
今夜も一之輔、末広で小三治聴く方がいいのかもしれないが切符が惜しくて、、ケチだなあ。
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saheizi-inokori at 2012-06-29 11:06
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saheizi-inokori at 2012-06-29 11:07
きとら さん、極端に完璧を求めて自壊していったのでしょうか。
惜しい人です。
惜しい人です。
平治のあの変に媚びを売るような態度が好きになれません。はっきり言って下手。
襲名を機に化ければ良いのですが、期待薄かもしれません。
襲名を機に化ければ良いのですが、期待薄かもしれません。
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saheizi-inokori at 2012-06-30 10:01
by saheizi-inokori
| 2012-06-28 13:30
| 落語・寄席
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