落語を語る人々は楽しそうだ 松本尚久「落語を聴かなくても人生は生きられる」

前にもちょっと書いた本、就寝前とか落語会の行きかえりに楽しんで、とうとう読み終わった。
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どの文章も面白かったが、とくに印象の深いものをあげてみる。

都筑道夫「私の落語今昔譚」、人形町末広亭の場所を「わからなくならない」うちに、と書きとめてあったり、志ん生と文楽をブラウン神父とエラリー・クイーンに擬していたり(志ん生は対象の落語を引き寄せて、いつの間にか一体化するのに対して、文楽は対象の落語を分析しながら近づいていって、再構成して完全に入り込む)、落語好きな先輩の薀蓄・思い出噺を聴く楽しさ。

戸井田道三「人と人の出会う間」は、落語の「間」とは何かについて丁寧に易しく説くと見せて実は哲学を語っている。
三国一朗の「桂枝雀」「立川談志」は、昔この人の『ハサミとのり』を読んで、切抜きのことをこんなに面白く書く人がいるのか、と驚いたことを思い出した。
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(尾山台商店街)
日比野啓「金馬・正蔵はなぜセコと言われたかー昭和戦後期落語についての一考察」は、落語の発話態度を<はなし>=<緊張>と<かたり>=<緊張緩和>に分けて、<かたり>よりも<はなし>がうまく、噺の語り手というより一人芝居の俳優として「役になり切る」ことがうまいとされたことが、<かたり>を追及する金馬(三代目)や正蔵(八代目)を”不当にも”セコ=下手とみなす原因となったという。
日比野は落語は<かたり>と<はなし>の往還運動・バランスだとし、志ん生をその代表にあげる。
一方、圓生や談志は徹底して<はなし>=演技にこだわった。
談志が父を継ぐ志ん朝の正統な落語を批判したのもその故、<かたり>と<はなし>のバランスが取れた「うまい」芸は、技術による達成だから、いつかつまらなくなるからだ。
八代目文治についての談志の批判はそこにある。
、、、この論文、読み応えがある。
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(九品仏「浄真寺」閻魔様)

森卓也「上方落語・桂枝雀」は、以前読んだ記憶があるが、枝雀という悲劇の天才の懊悩がうかがえる力作、松本の「ある落語家―立川談志」と双璧だ。
私は現代に於いて談志さんほどに生きるうえでの<律>を渇望している人を見たことがない
一般的日本人が、ほどのよい社会規範を借り物にして、かりそめの安定に浸ろうとする欺瞞を拒絶し、ひとり<律>を渇望し続け、それでも手に入らない喜劇を演じ続けたというのが松本のみたて。

さいごの久保田万太郎「寄席」は、寄席にことよせて久保田の生き方がつづられる。
落語とは本来、そんなにご大層なものであろうか?
松本のこの文章から触発された締めくくりの問いだ。
土壇場のしょい投げ?
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by saheizi-inokori | 2012-06-27 14:16 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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