服従することの安らかさ 山形浩生「訳者解説」
2012年 03月 08日
それが誤解や偏見にもとづいたり、メデイアや権力またはある種の集団の煽りに乗っての行動だったりすれば、本人の志が正義感から発していても結果として「見て見ぬふりをする社会」をつくる手伝いをしかねない。
正常な判断力、知識、洞察力、自己否定の勇気、、いろんなことが必要だ。
マーガレット・へファーナン「見て見ぬふりをする社会」は、その点でいろんな視点を与えてくれる。
心理学者・社会科学者・スタンリー・ミルグラムが1960年代に行った「服従実験」、通称アイヒマン実験のことを本書は紹介している。
市井のごく普通の人々が科学の実験という名目を与えられると、自分からは決してやらないような残酷な仕打ちを他人に対して(多くの人は強い葛藤とストレスを感じつつも)行ってしまう。
つまりユダヤ人虐殺の重要な犯人であったアイヒマンは生まれついての極悪人だとか性格異常者ではなく、組織の中で近視眼的に自分の仕事をこなすただの凡庸な官僚に過ぎなかったという、アーレントのナチス評価を支持したのだ。
権威の下で行動している人は、良心の基準に違反した行動を実行するが、その人が道徳感覚を喪失すると言っては誤りになる。むしろ、道徳感覚の焦点がまるっきりちがってくるというべきだ。自分の行動について道徳的感情で反応しなくなる。むしろ道徳的な配慮は、権威が自分に対して抱いている期待にどれだけ上手に応えるか、という配慮のほうに移行してしまう。戦争中の兵士は、村落を爆撃することの善悪は考えない。村を破壊しても、恥ずかしいとも後ろめたいとも思わない。むしろ自分に与えられた任務をどれだけ上手にこなしたかに応じて、誇りや恥を感じるようになる。(ミルグラム「服従の心理」山形浩生訳)と書いている。を引いてミルグラムの実験が示したものは、我々がどれだけ自分は服従しないと思っていても、大部分が服従するということだ。これは自動的に定まっている行動であり、少なくともその反対、つまり熟考や自由な考え方をするためには非常に大きな力がいる。服従は近道の一つの形であり、我々は他人の考えが自分のものよりも優れていると信じるのだ。簡単で単純であり、特に疲れて、他のことに気を取られ、闘いたくないときには楽な道だ。そして服従は我々を見て見ぬふりに陥らせる他の力を増幅し、統合する。
山形浩生の「訳者解説](basilico)は山形が訳した本の解説をまとめた本だ。
山形の訳者解説は、訳された本よりも面白くて分かりやすいのかもしれない。
少なくとも山形はそれを自負している。
ミルグラム「服従の心理」(の解説)も収録されている。
本の概要、著者の経歴・業績・才能、今までにあった本書への批判と評価をも要領よく紹介する。
そのうえで「蛇足」として、山形自身による本書の批判的検討がなされている。
いわく、
人間は生得的に他人を傷つけてはならないという道徳律を持っている(ミルグラムの前提)のではなく、後天的に社会の規範として修得するのだ。
そうだとすれば「権威vs個人の道徳」という問題設定は「ある権威(大学の科学研究)vs別の権威(社会全体)」とされるべきではないか。
つまり人々は「権威」を審査したうえで「盲目的に従っても大丈夫、信頼するに足るもの」と認めて残酷な仕打ちをしたのではないか。
そのように考えるとミルグラムの実験方法にはいろんな欠陥がある(省略する)。
そこで俺の牽強付会・乱暴な議論。
本当なら多くの事柄に信頼して盲目的に従って生きておれる社会が望ましいのではないか。
それなのに、そういう風に安んじて服従していける権威が無くなってしまったのが現在だ。
だからしんどいことだけど、個人が自分で学び、考え、行動しないと社会が機能しなくって、もっともっとひどいことになりそうだ。
それなのに、依然として個人の在り方が(「も」か?)以前(何時かな)と変わっていないのが困った問題だ。
フクシマについてあれだけの地震津波が来ればひどいことになるとわかっていて手を打たなかった東電やそれを認めた経産省・学者は投資効果=金という権威、肩書=金、、という権威を信頼していたのだろう。
いつ来るか(たぶん来ないだろう)わからない地震に備えて何百億という金を投じるのは経営者としてダメとする社会(株主も)、そういう社会をよしとする官僚・学者・メデイアが出世する社会、そういう社会は「東大の論理」(読んでないが面白そうだ)、東大の権威が支配する社会だ。
そんな社会の権威が完全に崩壊したことが世の中の隅々にまで理解されるのはまだまだ時間がかかりそうな気がする。
入学時期を9月にして”グローバル”な大学にしたって解決しないことは明らかだ。
まして競争主義を徹底すればよくなるどころかもっと悪くなることも明らかだ。
なのに、、ねえ、時間がかかるさ。
>人間は生得的に他人を傷つけてはならないという道徳律を持っている(ミルグラムの前提)のではなく、後天的に社会の規範として修得するのだ。
同感です
人間の中には、残酷を好む部分もあり、でも根性無しだから、一人では決定できない
それが、大きな権力という物にok出されると、待ってましたとばかり、羽目を外す
そういうもんだと思います
正義なんて、人それぞれで、だから死刑制度が反対か賛成かを延々と論議する必要があるのと同様
それは、死刑制度を廃止するかしないか以前に刑法に関しての意識 裁判での不条理を失くすと言う意味 人に対して刑罰を決め、与えると言うことの責任の重さを認識する上で新たな繊細さを呼び起こすと思うので...
権威なんて、もろいもんです
だからこそ なによりも個々がしっかりしなくていけないと思います
権威であろうがなんであろうが、??と思ったことは、すぐに疑問視して、声に出す、変ではないか?と
そういう繰り返し以外、歪んだ社会を正していくことはできないと思います
正さなかったから、ここまで歪んじゃったんでしょ??日本
>フクシマについてあれだけの地震津波が来ればひどいことになるとわかっていて手を打たなかった東電やそれを認めた経産省・学者は投資効果=金という権威、肩書=金、、という権威を信頼していたのだろう。
彼らの辞書に信頼などという文字はないと、信じます
大事なのは、おいらの懐がどんだけ膨らむか?
単なる、愚かな物質主義でしょ?
自分に自信のない人々は、えてして物や肩書によって自分に鎧を着せようとします
そういう奴が、社会の上位でのさばってる今の日本は、最低に幼稚な国です
追記:のさばってると書こうとしたら、野田ばってると打ってしまった
ああ、不思議、不思議
しかし、見て見ぬふりをしてますね。橋下は以前何を言っていたか、それが今どうなっているか、維新の会の議員たち、どんな連中で何をしているか。傍で見ている筈なのに知らせない。
ひょっとして将来、みんなが見て見ぬふりをしなければ生きていけないような世の中になるかもしれませんね。ま、それも一時の夢でしょうが。
以前として古い崩壊した権威に従っているのです。
しんどいけれど言い続けないといけないと思います。
蟷螂の斧かもしれないが。
何も答えられないのです。
あいりん地区の対策、フラットな税制,,etc.
すぐにぼろを出すと思いますが、それでも結果を待っている時間はないのかと思います。
それとボロをボロだと伝える人が伝えないから困りますね。