もっともっと寒くなれ!にやけた顔が引き締まるほどに

寒い寒いというけれど長野で暮らした子供のころはもっともっと寒かった。
水道管には藁を巻いて破裂するのを防いだがそれでも凍り付いてしまって湯たんぽのお湯をかけて溶かした(溶ければ幸い)。
濡れた手でガラスコップなどにうかつに触るとくっついてしまう。
それでも室内に石油ストーブが入ったのはずいぶん後のことで、ずっと炭の炬燵だけで暖を取っていた。

だけど、ちっとも苦しいなんて思わなかった。
雪が降ればもっともっと降れと思ったし雪で服も靴の中も濡れても平気で遊びまくっていた。
冬は寒いものだと思っていた。
だから雪が溶けて泥んこ道が乾きはじめると春の実感で満たされた。
そうして背丈も伸びた。

だけど、ダウンも着ないでホッカイロも持たずに汽車の駅まで歩いて会社に通い、夜遅く帰ってきてオール非電化の台所で晩御飯の支度をする母は大変だったと今さら思うアカサカミツケな豚児俺。
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母も晩年絵手紙やっていた。
ひとりで線を引く練習をしていた母はどんな気持ちでいたのだろうか。
俺もあの頃の母の年に近づいてきたなあ。

今年初の祖母と母のおでまし、まずは祖母の歌から。

おのづから恵まるる物に満ち足りて日々を好き日と老いゆく吾は
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(ダイヤモンド富士は撮れなかった)

甘海老の卵のみどり雪恋ひぬ

人と逢ふときめき知るや冬の星
Commented by 散歩好き at 2012-01-31 16:44 x
土間の七輪と部屋の火鉢だけでしたね。今じゃ凌げないでしょう。ダイヤモンド富士の押し売りを失礼します。
Commented by sweetmitsuki at 2012-01-31 21:20
寒いのは本当に閉口ですが、魚が脂が乗って美味しいのと富士山がキレイなのは冬ならではですね。
子持ちの甘エビ、無性に食べたくなってきました。
ダイヤモンド富士は世田谷で見られるのはもう少し先で、二月初旬ごろだそうです。
Commented by saheizi-inokori at 2012-01-31 23:14
散歩好きさん、練炭、炭団も懐かしいです。
源氏物語のころなんかはもっと寒かっただろうと思います。
ダイヤモンド富士は↓のコメントに勇気づけられてまた挑戦してみます。
Commented by 高麗山 at 2012-01-31 23:16 x
この厳寒期に、重機の運転技術を見込まれて、大和盆地より500メートルの標高が有る青垣国定公園内の河原で土木工事に従事しました。
河原のヒューム管は凍結して河原に埋まり、ブレーカーで削氷して掘り出す始末、バックホーの運転席は一応遮断されていますが、室内にいても、垂れ下がる鼻汁が氷かかるのには参りました。
翌日は、赤い鼻下を啜りながら何十年かぶりの寒さを経験しました。   スキーなら、平気なんだがな~。。。
Commented by saheizi-inokori at 2012-01-31 23:16
sweetmitsukiさん、私はへそ曲がりなので冬や雨の日なども好きです。
一年中では困りますが。
ダイヤモンド富士、ではこれからサンチの散歩は夕方日の沈む頃にして駒沢通りの坂のてっぺんに行くことにします^^。
Commented by saheizi-inokori at 2012-01-31 23:19
高麗山さん、風邪はひきませんでしたか。かえってそういう時は大丈夫なのかもしれないですね、気が張っているから。
昔は鼻柱がみしみし凍って眉毛や髪の先が凍りました。自転車で風を切って走ったからかもしれないですが。
Commented by poirier_AAA at 2012-01-31 23:46
そう、冬は水道管が凍りましたよね。実家は井戸水をひいて使っていたのですが、断熱材だけでは足りないくらい冷え込む晩には、寝る前にわざと蛇口を少しだけ緩めていましたっけ。水が凍りつかないように、たらりたらりと水をたらしておくんです。

炭の炬燵の暖かさは格別でした。炬燵の火の世話をさせてもらえるようになった時、成長を認めてもらえた気がしました。そんなふうに生活の中で生きる知恵をつける機会が、いまの子たちには本当に少なくなったような気がします。
Commented by marsha at 2012-02-01 00:19 x
夜寝る前に火鉢の火を灰の中に埋めておき、
翌朝、灰の中から火種になる炭を集めて中央に置き、
その上に新しい炭を斜めに組むように載せて真っ赤に
火を起こしたものです。

五得の上に餅網をのせて、“おへぎ” という薄くスライスした餅の煎餅を焼いて、どんどん膨らんだり、大きく伸びるのが面白く、焦げるほど見詰めていました。
Commented by kaorise at 2012-02-01 00:49
うちの弟ったら、しょっちゅう練炭中毒になって病院に担ぎ込まれてましたよ。
目を離したら、ほりごたつのなかに頭つっこんで寝ちゃったりして〜
練炭の匂い、いまでも思い出すとなんとも懐かしいです。
Commented by moraisan at 2012-02-01 03:49
いつからか寒さに背を丸めるようになった自分がいます。
子供の頃、北海道の家には石炭ストーブが赤々と燃えていましたが、手にはあかぎれ足にはしもやけがあたり前でした。

甘海老の卵のみどり雪恋ひぬ
人と逢ふときめき知るや冬の星

季節も人も、今よりずっと愛していた自分があったと思い知ります。


Commented by saheizi-inokori at 2012-02-01 09:11
poirierさん、灰神楽三太郎ってご存知ですか。浪花節に出てくるのですが今の子は灰神楽の実感はわからないでしょうね。
炬燵に頭を突っ込んでふ~ふ~吹いて吹きすぎて小さな灰神楽でした^^。
Commented by tona at 2012-02-01 09:11 x
あの頃の佐平次さんのお母さんはどんなにかご苦労されたことでしょうね。
でも可愛い息子さんがいるので苦労とも思わずに頑張っていらっしゃったのでしょう。
小さい頃は寒かったけれど、暖房がなくてても元気でいました。今は体内から温かい熱も出なくて寒さに対抗できなくなった老体です。
例の有名な富士見坂ですか?
Commented by saheizi-inokori at 2012-02-01 09:15
marsha さん、学校から帰ると炬燵の火のチエック、どうかすると火種の豆炭が消えてしたりして、そのときは悲しかった。
炭の起きる匂いは力強く思いましたよ。
ヘギ餅、私たちはナマコと言いました。
豆入りが大好き、春になってカビが生えてくると油で揚げてオカキにしてもらってそれも楽しみでした。
揚げている脇でアツアツのを食べる嬉しさったらなかった^^。
Commented by saheizi-inokori at 2012-02-01 09:25
kaoriseさんは優しいからそんなことしなかったと思うけれど、私は弟と炬燵のなかの領土争いで喧嘩しました。
そっちがはみだしてるとかそっちこそ、じゃ動くな!そのまま、といって布団を剥いで実態確認をしたのです。
要するに寒かった、炬燵に入っていない背中とか腰が寒かったんですね。
Commented by saheizi-inokori at 2012-02-01 09:31
tona さん、でも母は晩年私が昔は大変だったとか極貧だったとかいうと、「そうお?私は普通だと思ってたよ。みんな大変だったからねえ」とよく言いました。
ここは富士見坂という名前はついてないと思いますがちょっと坂を下ったところに富士見橋ってのがあります。今は到底見えませんが。
わが家は二階ですが三階の屋上あたりからだとよくみえるのかもしれません。
ここに住んで10年近くになるのに富士が見えることに気がつかなかったのもうかつというかガサガサした生き方をしていたんだと思いますよ。
Commented by saheizi-inokori at 2012-02-01 09:40
moraisanさん、人間も自然の一員であるという気持ちが亡くなって自然を対立するもの、または人間が利用するものとしてとらえるような生き方が寒さに耐えられない人間を作り始めたのかもしれないと思います。
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by saheizi-inokori | 2012-01-31 12:49 | わが母と祖母の遺したまいしうた | Trackback | Comments(16)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori