科学が敢えて触れずに来たクオリア 「脳と仮想」(2)(10月27日の記事参照)

クオリア(感覚質)とは、人間が「あるもの」と他のものとを区別して把握する何かである。同じ大きさのリンゴといっても、精巧にできた模造と本物の違いは重さを量らなくても分かる。説明が分かりにくいね。例えば赤い色の感覚、水の冷たさの感じ、そこはかとない不安・・心のなかの数量化できない、微妙で切実な感じ・・それがクオリア。そのようなクオリアに満ちているのが我々の主観的体験だ。花がいっせいに咲き誇っている美しさから感じる何か、桜から、コスモスから、パンジーから・・どうして受ける感じが違うのだろう。一本の花、花びらをばらばらにしても物理的には同じ花なのに受け止める感じがまったく違う。
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科学的世界観では数量化できるものを扱う。だから心の問題は扱わないで来たのだ。心の問題、すなわちクオリアだ。科学的世界観からは心がなぜ存在するかを明らかにできない、せいぜい物質的プロセスである脳のニューロン活動に「随伴する現象」として、つまり心なんてものは、あってもなくても良い「付け足し」でしかない。これが今までの脳科学の態度であった。ニュートン以来の近代科学はそのようにすることによって客観的世界を完璧に記述できたかのようである。

しかし、それは今のところ私たちの意識を生み出す自然の秩序の本質を解明しえていない。
心を随伴現象と片付けてしまっては、科学は、宇宙の根源を理解するための知的探求として不完全、不満足に終わる。そして、命のやりとりをするような烈しい精神で科学をやる人間もでなくなる。
心は脳内現象であることは否定できない。それなのに脳という空間的限定から解放された存在でもある。脳内のニューロン活動は「今、ここ」という限定の下で起きているが、心は遠い星のことや「沼地のある森」のことも考えることができる。

さ、この本から俺は何を学んだのか?梨木果歩さんの旅から一体どこへ行こうとするのか。
みすゞの世界とどこでつながってくるんだろう。あてのない旅のようなものだ。分かっていることは人間が心を持っている、意識というものを獲得していく物語だ、ということ。

Tracked from ビッグイシュー応援団(第.. at 2006-02-11 11:27
タイトル : ■43号 いま心を考える
脳科学者・茂木健一郎氏がゲスト編集長。 「未知なるモノ」を求めるのが脳。 脳からの要求に現代人はこたえることが出来るのか? 団長と団員で考えます。 作家・島田雅彦さんの上げる「脳に快感」をもたらす方法に団長は賛意を表します。... more
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by saheizi-inokori | 2005-10-30 22:10 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback(1) | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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