森達也・森巣博 「ご臨終メデイア―質問しないマスコミと一人で考えない日本人」 (集英社新書)
2005年 10月 22日
そもそもどんなに客観ということを標榜しても、何をどう伝えるかを考えるメデイアの主観を無視できるものではない。メデイアに従事するものは自分たちの仕事のそういう限界を自覚しつつも、できるだけ客観的に、中立公正であろうとする努力をしなければならない。三権に次ぐ第四権として権力に対する監視の役割を果たし続けなければならない。主流の言論の自由はすでに保障されているのだから(だから主流になっている)、保障されるべきは、異端の、少数派の言論・表現の自由だ。自分が報道したことによって起きる事態に責任など到底取りきれないほどメデイアには大きな影響力があることについて覚悟しなければならない。謙虚であらねばならない。
然るに現状は、無自覚なメデイアが実際は”売れるか(視聴率が取れるか)””抗議されることを避けたい”といった、本来のメデイアのあるべき姿とはかけ離れたところで”自己規制”した報道に終始している。
もう一歩踏み込んで権力に質問することを自粛してしまう。オーム信者に対する警察の違法な対応を撮影しながら報道しない。オーム信者の住民票を受理しないことは明らかに法律違反なのに、”オームを吊るせ”という”世間”(”社会”とは異なる)感情に恐れて、そのことをつかない。オーム信者の多くが普通の市民であり、人格者もいることを報道しない。何がなんでも悪・鬼として報道しなければならないと自己規制する。抗議が怖い。抗議の結果上司から叱責されることが怖い。その報道姿勢が一層”世論”をオーム叩きに煽る。悪循環だ。
イラク戦争の悲惨な映像をお茶の間に持ち込んではならないと誰が決めたのか。BGMつきの抵抗の少ない、死体の写らない戦争を報道する。死体を写してはいけないという法律などないのに。戦争をやめさせることについてメデイアの持っている最大の武器を自ら放棄している。
警察の中で裏金つくりが行われていたことを北海道や高知をはじめ13の都道府県警察が認めた。そうだとすれば虚偽有印私文書作成・行使をはじめ、脱税、詐欺、公金横領など多くの犯罪が行われていたことになる。しかし誰一人パクられない。オーム信者は住民票にないところに住んでいたとして逮捕されているというのに。
日本人が「われわれ」と「かれら」を簡単に分けて考えることで判断停止のまま法律も人権も無視したような措置や報道を歓迎しようとする。マスコミはそれに迎合し誘導する。どちらも自分の頭で考えようとしない。
護送船団方式と銀行のことをあざ笑ったマスコミはホリエモン騒動で他ならぬ自分たちが「外資からメデイアを守れ」という自民党・政府に守られていることを天下に示した。何よりも新聞社は国から払い下げを受けているじゃないか。
イラクがやれば”拷問”でアメリカがやれば”虐待”、”被害者”は”犠牲者”、”テロ”という言葉のご都合主義的な使い方、”犯罪”が”不祥事”に。主体性を持って考えずに発表側の思惑や世間の”空気”で用語も統一される。
多くの事例を挙げながら二人は日本のメデイアを憂い・糾弾する。結論は「ご臨終」。しかし森のあとがきに寄れば「終わりに臨む」だけで、ほんの数ミリか一秒の何分の一かを残して、まだ終わっていない。ロシアのことわざに「最後に死ぬのが希望だ」という言葉があるそうだ。希望はまだ死んでいない。
俺も今のマスコミにはかなり悲観的だ。「~という声が高まりそうだ」などという表現は一体なんだ。記者が気に食わないなら気に食わないと、自分の責任ではっきりいうべきだ。遺族に「今のお気持ちは?」・・「ええ、嬉しくってたまりません」なんていうわけないじゃろ。視聴者・読者と一緒になって低俗な野次馬になっている。何か事件が起きると暫く家庭問題・教育問題・郵政問題・・各種の問題の専門家になったかと思うくらい明けても暮れてもその話題。しかし、いつの間にかそんな話題は消えて我々にも何も残らない。問題提起ばかり、それも浅はかな・低俗な・ジエラシー混じりの、に留まっているからだ。自分で取材を受けてみるとモットひどさが分かる。ヤラセなど茶飯事だ。本の中で二人も言っているが「調査報道」などという言葉があること自体が「普通は調査なんてしていない。インタネットの切ったハッタだ」ということを示している。前にブログにも取り上げた「メデイアの支配者」は、フジサンケイグループにとどまらずマスコミ共通の闇をも書いているせいか大手新聞社の書評ではあまりお目にかからない。講談社や新潮社の賞をとっているのと対照的だ。
メデイアの責任を追及し絶望しつつある二人だが、そういうメデイアと”両輪”を形成して日本をつくっている我々・国民の罪・責任のことも通奏低音として聞こえてくる。一昨日書いた「官僚とマスコミの給料が高すぎることが彼らの保身をひどいものにしている」という俺の主張を、森巣も繰り返しているのは(彼はメデイアのことのみについてだが)同じことを考える人がいるんだなあと、ちょっと愉快でもあり、ますます暗い気持ちにもなった。
9月に秋田で俺が造った楢岡焼き・海鼠釉。今日送られてきた。結構でしょう?
松尾「北海道のおじさん(中川議員をさす)は凄かったですから。そういう言い方もするし、口の利き方も知らない。どこのヤクザがいるのかと思ったほどだ。」…本田「放送中止を求めたのか?」中川「まあ、そりゃそうだ。」 月刊現代9月号に「衝撃スクープ・巨大メディアは何を誤ったか。証言記録を独占入手!NHKvs朝日新聞『番組改変』論争 『政治介入』の決定的証拠−中川昭一、安部晋三、松尾武元放送総局長はこれでもシラを切るのか」と題する記事が掲載された。これによって朝日新聞のスクープが正しかったことがはっきりした。 ...... more
確かに組織ジャーナリズムにおける“客観報道”とはなんぞやと、イライラすることが増えました。イラク人質問題で自己責任論を社説で展開した読売など、主観と客観をわける主軸をどこに置いているのか分からない報道でした。他の新聞も似たり寄ったり。購読数800万部、1000万部という巨大メディアが存在すること自体、この国の言論は右か左か真ん中かという選択肢しか持ちません。
自身は言論の片隅に身を置きながら、媒体を選べないジレンマに苦しむこともありますが、常に塀の上を歩ける気概だけは持っていたいと思っています。無論、塀の向こう側は「刑法に触れたとされる人」が収監されるところです。
がんばってください。
今朝少し修正しました。