能代商の健闘と故郷への想い 高木仁三郎「市民科学者として生きる」から
2011年 08月 17日
長野高校時代に俺の周りを包んでいた空気を思い出した。
長野も秋田も雪の多い、寒い田舎だ。
野球留学などとは無縁な選手や応援団の地元民そのものの表情を観ていると、思わず能代商に感情移入していた。
高木仁三郎の「市民科学者として生きる」を読んでいたら、室生犀星の「利根の砂山」を引いて、前橋生まれのアナーキスト萩原恭次郎の詩碑にある
汝は山河と共に生くべしと比較して
汝の名は山岳に刻むべし
流水に描くべし
室生犀星や草野心平などは、前橋にちなんだ美しく愛すべき詩を多く残しているが、そこには朔太郎や恭次郎の詩のもつ、突き刺さるような厳しさがない。私もまた、この自然の峻烈さに何がしかの影響を受けたと思っている。ある自然の中で人間が育っていくときには、多分に他の人的環境因子と相互作用しつつ、自然が人格形成に大きく関与するのだろうと思う。と書いている。
このことは、とくにいま、子どもたちのまわりから自然環境が奪われていく状況を目の前にして、深く考えさせられることである。
反原発のために生涯をかけて戦った高木が1999年に癌研病院で書いた遺言とも言える自伝だ。
住民が避難して無人となった飯舘村などの映像を観たときに感じる哀しみの内には喪失感がある。
生活が破壊されたことに感じる痛みとは、ちょっと違った痛みがある。
人が生い育つときに必須の環境がなくなってしまったことが、無意識のうちに感じられて心をとても暗くする。
他人事とは思えないのだ。
秋田の人たちに自分の故郷を感じたように、飯舘の人が故郷を喪失したら俺も故郷を亡くしたような気がしてしまうのだ。
反原発の意思の根っこには故郷を失うことに対する恐れ・憤り・怒りがあるのだと、あるべきだと思う。
「国破れて山河あり」ではなくて「山河あれども入るを得ず」の哀しみ。
↑の高木の文章に続いて引かれていた恭次郎の詩
厳冬の地は壮烈な意志に凍りついてゆくそしてこの詩のあとに
俺は酷烈な寒気に裸の胸をさらしてゐる
来い!来い!
鋼鉄の冬よ 何物も清く氷結させる勇者よ
俺は只一すぢの矢となる
アナーキズムはともかく、この恭次郎の詩のもつ独特の雰囲気をわが郷土の後輩たちは、今も感じてくれるだろうかと書いて第1章を終えている。
自然の中で育つのは大切なことですね、、私は小学4年生くらいまでごみごみした下町で育ちましたが、そのあと山の近くに引っ越して自然を満喫できたのが救いでした。
なだらかでやさしい山の姿を見ると、親のように感じます。
ふるさとをなくす、あるのになくすなんて、悲しいですね。
ごみごみした下町にも自然はあったのかもしれない。
今とは違うのでしょう。
マンション、これが問題かもしれない。
厳しさもあったような。
希望について書いてあります。