「日比谷焼き打ち事件」が日本を誤らせた? 黒岩比佐子「日露戦争 勝利のあとの誤算」 |
学生時代の寮ではLPを何枚か(10枚前後だったかも)共同(寮費)で買っていて聴きたい人はそれを借りて小さな応接室みたいなところで聴くのだった。
俺はこのリ-・モーガンのレコードが気にいって、その中でも「チュニジアの夜」は記憶に残っている。
そのチュニジアから始まったアンチ独裁の暴動があちこちに飛び火してエジプトなどは恐ろしいことになっているようだ。
日本でも100年少し前に「日比谷焼き打ち事件」という暴動があった。
日露戦争に”勝った”のに講和条約でロシアから得たものが少ないと国民の多くが怒りだし、”対外硬”なる、特にロシアに対して強硬路線をとるべしとするグループ・講和問題同志連合会が日比谷公園で国民大会を開く(1905年9月5日)。
警察は大会の中止を申し入れたが小川平吉ら主催者が肯んじなかったたために実力で封じ込めようとしたが3万人もの人びとがバリケードを破り大会を強行する。
吾人は挙国一致必ず屈辱条約を破毀せんことを期す。吾人は我が出征軍が驀然奮進以て敵軍を粉砕せんことを熱望す戦争を継続することを要求したのだ。
知られている通り、当時の国力では日本海海戦における勝利を僥倖としてアメリカの仲介で講和に持ち込むことが精一杯、これ以上戦争を続けたらひどい目にあうことは政府・軍部では分かっていた。
桂首相はそうした内情を正確に国民(せめてメデイア)に伝えるどころか取らぬ狸的な身勝手な講和条件案をダメ元で公表する。
東京帝大の戸水寛人をはじめとする七博士が、それ以上の講和条件案を提案し、メデイアの多くもそれを支持し政府の弱腰を批判し講和破談を煽った。
あたかも勝利者のように悠々たるロシア代表・ウイッテを相手に粘り強く交渉を続けた小村寿太郎は今では日本外交の勝利とも言えるほどの成果を挙げていたが、ロシアに勝つことで貧困などのさまざまな問題が解決するかもしれないという根拠なき希望を持っていた国民は小村を売国奴と罵った。
日比谷に集まった人びとは、さらに政府寄りの「国民新聞社」(京橋)に投石、内務大臣官邸(日比谷公園前)では建物に石油をかけ二棟を全焼させる。
そしてその日の夕方から暴動は拡大を続け、6日までの二晩で、東京全市の交番の約八割に当たる264か所と警察署・分署9か所が焼き打ちされた。
又市電も日比谷で11台、四谷で4台が火をかけられて灰燼に帰した。
職場を奪われる車夫たちの所業という説もある。
警察は実力で鎮圧すべくサーベルを抜いてあたりかまわず群衆に斬りかかったという。
警察消防の負傷者500人、民衆側の死者17人、負傷者は千人とも二千人とも言われる。
警察では収拾できず軍隊が警護にあたったが民衆は軍隊に対しては同情的だったという(エジプトもそんな情報がある)。

本書はこの日比谷焼き打ち事件についてさまざまな資料によってリアルに再現する。
そしてなぜこういう事件が起きたのかを推測する。
時の桂首相は国民の不満のガス抜きを果たし、その後電光石火の如く「戒厳令」と「新聞雑誌ノ取締ニ関スル勅令」を発布する。
一方で不手際を責められ日頃から薩長閥の守りとしての役割を果たしていた(内閣直轄だった)警視庁廃止の世論に合わせる形で警視庁から薩摩の勢力の追放にも成功する。
どうも、桂の思惑通りに全てが運んだようなのだ。
その後”起こした”大逆事件の頃には新聞はすっかり牙を抜かれ政府の発表をそのままに受け入れることになる。
著者はあとがきに書く。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」でこの事件についてひとことも触れなかった。
その代わりに「この国のかたち」で、日露戦争の勝利とその後の日比谷の国民大会こそが、その後の日本のむこう四十年の魔の季節への出発点になったと書き
この群衆の熱気が多量にーたとえば参謀本部にー蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。と書いている。
むろん、戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の日本の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。
そして著者も
戦後、日本の新聞は戦争に協力した責任を問われることなく、GHQの占領政策に協力することで今日まで生き延びてきた。二十一世紀の現在、新聞をとりまく環境は大きく変わったが、この百年の歴史の教訓を新聞はどのように受けとめ、そこから何を学んできたのだろうか。と書いている。
もう一度、百年後から照射して検証すべきではないか
俺はメデイアに
TPPとは一体何なのか?
巨大な国家債務はどうなるのか?
、、
本当のことを知りたい、考えたい。
本当のことを知るために、考えるために役立つ記事を書いて欲しい。
もうあの人たちの情けない一挙一動のことはいい加減にして。
小沢はめでたくギョメイギョジにしたんでしょうから。
文春新書

to me or us
本当のことにしたいことってなんだろう、
from who?
why?

クリフォード・ブラウンの後継者でしたね。最後は
愛人に射殺されました。壮絶な音楽人生です。

アルバム「The Cooker」の最初の曲ですね。1957年9月29日の録音、BlueNote1578番。リー・モーガンはまだ19歳。バリトンサックスのペッパー・アダムスがなかなか効いています。ピアノは「モーニン」の作者ボビー・ティモンズ、ベースはポール・チェンバース、ドラムスはフィリー・ジョー・ジョーンズというマイルスを支えた強力コンビ。
先輩達に囲まれて若き天才トランペッターが伸び伸びと吹いていますね。私もこの曲は好きです。
クリフォード・ブラウンに憬れた早熟のトランペッターでしたが、創塁パパさんのご指摘の通り、ライブの途中で奥さんに撃たれ34歳で亡くなっています。早熟、というのも、必ずしも人生後半が幸福とは言えない例が多いですが、彼もその典型かと思います。私にはまったくその心配がありませんがね^^
もしかすると間違っているかもしれないけれど書く時点では本当だと信じていること。
わかっていてウソをついて自己の利益を図るのではなく。
ますます、好きになりそうです。
よくは分からないけれど。
メディアの責任を問うことも重要で、メディアにもっと変わってほしいなと。でも今の政治家は変えられないですよね。
こんなの学生時代にきいていたんですか〜知的だなあ、、
この方、何があったにせよ、夫を殺すような女性と縁があったとは、、気の毒です。
才能がもったいない、、、!
小沢の如くに。
ナベツネは冒すべからずです。
二人の間に何があったのでしょうね。
と、いう程度の事は知っておりましたがこの焼打ち事件は知りませんでした。
読んでみます。
陸軍が樺太を占領していたとは、まして、ルーズベルトがそうするように勧めていたとは、陸軍の一部には「まるで火事場泥棒のようだ」というためらいがあったとは・・・。
どうも日比谷事件には黒龍会の内田良平の暗躍があったようですね。また、小泉純一郎の祖父が警官にふん縛られたり、丸山眞男の父親がサーベルで背中を切られたり・・・、よく調べ上げたものですよ。
それに桂太郎の妾お鯉のエピソード。今の、小沢ガールズの役回りでしょうかねぇ。(笑)
『パンとペン』より面白かったです。
ほんと、惜しい人を亡くしました。
「風をつかまえた少年」は手に入れましたよ^^。
二葉亭四迷の「ひとりごと」も傑作です。
今の記者にはまねができないでしょう。
焼き打ちの背後に桂の意向があったのだとすれば凄い男だともいえますね。ニコポンの真実?^^。

修正します。射殺したのは、妻ではなく、創塁パパさんのコメントの通りで愛人です。
私には、早熟も愛人も縁がない^^
ポーツマス条約の結果への国民の怒りによる焼き討ち事件でしたね。
ポーツマスには仕事の関係で三~四回行ったことがあります。小さな港町で、夏には公園でジャズフェスティバルもある、のどかな所です。レストランやカフェなどで聞いても、地元の人達はほとんどあの条約のことなど知りませんでした。そりゃあ、そうですよね。
では、お互いジャズも落語も楽しみましょう!
まだまだお若い幸兵衛(変な言い回しですね)さんは、ますます熟してロマンスもあることでしょう^^。
ポーツマスのジャズですかあ、小村に聞かせたいなあ。
ありがとうございます。
大逆事件よりも早いという時間的な関係も知りませんでしたので。