周縁にいる者としての視線 ろうあの写真家・井上孝治が出来たこと
2010年 12月 11日
アメリカの軍事占領下の沖縄にはパスポートや身元引受人が必要だし現地通貨は米ドルだった。
長男の一のクラス担任が沖縄出身だったことと福岡で知り合ったアメリカ軍人が沖縄の基地にいたと言うだけの縁を頼って、家業(写真屋)の一番忙しい時期に費用をかけて沖縄に行くことが出来たのは妻のミツエの理解と支援があったからだ。
ミツエが結婚するときの考え方については前に書いた。
孝治はろうあのハンデイを物ともせず沖縄の人たちにすっかり打ち解けて、地元の盲唖学校を訪問して講演したり、聴覚障害者たちとも親密な交流を行う。
沖縄の人たちの「イチャリバ・チョーデー」、「出会えば、そこから兄弟」の精神のせいもあるけれど孝治が初対面の人にも垣根なく飛び込んでいく人懐っこさが大きい。
旅の目的の写真については、何一つ見逃すまいと、あらゆるものにカメラを向けた。
小売店の「CocaーCola」の看板、バーに出勤する女性たち、靴磨きの少年、子守をする少女、市場で働く女性たち、、、孝治の人柄のせいか誰しも警戒を解いているから自然な笑顔・表情だ。
沖縄の写真を撮った写真家は多いが孝治のように、米軍占領期間の中間点で、報道写真ではなく市井の人々を2800枚も撮った写真家は他にいない。
これらの写真のネガはずっと井上家に埋もれていたのだが、1987年、沖縄生まれの報道写真家・石川真生が、沖縄の庶民史となる写真集を作ろうと、眠っている写真を募集しているということが新聞に載ったのを見た一が父の写真を送って、果然注目されることになった。
石川は当初考えた「大琉球写真帖」の完成に飽き足らず孝治の写真だけで「井上孝治写真展・ヤマトンチュが見た三十年前の沖縄」を那覇で開催する(1990年)。
反響は大きかった。
離島からも人々はやってきて、それぞれの思いを抱いて写真に見入り、多くの人が涙を流した。
写真展の二週間、孝治は会場に居続けて人々から「焼き増しして欲しい」という希望があると、住所を尋ねて後で送った。
もちろん無償だ。
(この写真は「あの頃」という写真集になっている)
著者の黒岩比佐子は孝治が、「なぜ、あの時沖縄を目指したのか」について推理している。
自分では差別をしている意識がなくても、知ろうとしないこと、無視するということは無意識のうちに差別をしているのと変わらないのである。だから孝治の撮った沖縄の人々の写真が、普遍的な人間の姿になっているのだという。
ヤマトンチュ(本土の人)から見たウチナンチュ(沖縄の人)、そして、健聴者からみた聴覚障害者ーどちらも周縁に置かれた人々だという点で共通する。聴覚障害者である孝治は、そうしたことから、当時の沖縄の人々に強い共感を抱いていたのではないだろうか。彼は自分の体験から、無関心や無視からは理解も交流も生まれてこないことを知っていた。だからこそ生の沖縄を自分で見て、写真を撮ることで人々と心を通わせ合おうとしたのではないか。
他所から来た不審な人物であるはずの孝治が、これだけ多くの人々の写真を撮れたのは、自分の口では語ることがなかったものの、彼が心の奥底に持つ同じ周縁に置かれた者の哀しみが、沖縄の人々に伝わったからに違いない。話は飛ぶが、今朝のテレビで、あるキャスターが「米軍が基地を沖縄に必要だという以上、普天間の県外移設を言うことは茶番じゃないか」と沖縄の県議会議長だったかに言った。
まさに孝治とは正反対の”中心からの”発言だと思う。
他人事ではない都県の住民ならよくわかっているはずなのに
あえて目をつぶるのは、明らかな差別ですね。
残念ながら、人はその痛みや苦しみを自分で味わわないとそこにいる人の立場を思いやることができない
だから政治家の人々には、どんどん病気になり、どんどん不幸を味わっていただかないといけない。
というのは、「馬鹿で間抜けのアメリカ人」の中でマイケルムーアが言ってる言葉
知恵のある人はそれでも相手の立場を思いやろうと努力をするものなのだけど、政治家なんて権力ぼけしたおっちゃんには無理
>知ろうとしないこと、無視するということは無意識のうちに差別をしているのと変わらないのである。
全くその通りであると思います
下のお刺身うまそーーー 涎’’
特に日常をスナップで撮る、撮られる、というのは贅沢なこと、嬉しいこと、だったのではと察します。
画面からファインダーのこちらも、向こうもカメラを通して楽しんでいる、、明るい気分が伝わってきます。
命のときめき、ですね。
ときめきの前では誰もがバリアフリー、平等です。
井上さんは写真を通して現れるときめきの世界で、自分らしく自由でいられたのかもしれませんね。
アメリカとの抜き差しならない関係があるからと云って基地を押し付けられている沖縄の人に「嫌だというのは茶番だ」という神経が恐ろしいです。
だからかえって写真に神経を集中出来たのかもしれません。
8年くらい前に久米島で子どもたちのエイサーを見てその顔の素晴らしさに感動しました。
それで農水省のお金でその子たちを東京に呼んだことがあります。
10人の予算だったのですがそれを基礎に自費負担も交えて30人くらいの子が東京でエイサーを踊ってくれました。
あの顔の素晴らしさは忘れられないです。
だいたいいつも湯豆腐、決してクソーと云われるほどのものは頂いておりませんでございます、はい。
目の輝きをなくさない大人でいたいです。
上に↑も書いたようについ最近も離島の子たちの目の美しさは素晴らしかったですよ。
私がエイサーの太鼓をいじりだすと皆寄って来て、それはそれは嬉しそうにやり方を教えてくれるのです。
おずおずと叩いてみせると元気づけるように笑って頷いたあの子たち!今はどうしてるんだろうか。
鰹節と葱と醤油に酒もいれた熱い出し汁をかけて、、。
熱燗とのすてきな二重唱!柚子の皮をちょっと散らすと又いい香り^^。
湯豆腐はちっともしつこくありません、はい。
この前のコメントでやめようと思ってたのに―――――
あーーー――湯豆腐が たらが――
脳内にカツオのだしとともに沁みこんでくる―――
saheizi---------!!
憶えておれ―――
仇じゃ、仇を取るぞ――
くそーーー!!
首しめないで~!