人は見かけによらない 藤沢周平「たそがれ清兵衛」
2010年 10月 10日
観ないままだが。
清兵衛は、お城で勘定組に勤めているが時々居眠りをする。
夕方下城の太鼓が鳴ると、いそいそと帰宅する。
それで人呼んで「たそがれ清兵衛」、バカにしている。
彼が早く帰るのは寝たきりの病妻の面倒をみるためだ。
厠の面倒から食事、掃除、、一心に世話をするけれど収入が少ないからいい医者に診てもらえない。
温泉にも連れて行ってやりたいのだが。
家老の杉山が清兵衛に言う。
藩を牛耳っている悪家老・掘を弾劾するのだが、きっと抵抗するのでそのときは悪家老を斬って欲しい。
そうすればいい医者を紹介し妻の養生を援助するという。
妻のおしっこの面倒を見てから弾劾会議の隣室に駈けつける約束、指示した時間になっても清兵衛は現れない。
一藩の危機と女房の病気の、どちらを大事だと思っているのかと、杉山は内心で清兵衛を罵るが
あの清兵衛なら、どっちとも判じかねると首をかしげるかも知れないと思って余計に苛立つのだ。
清兵衛はぎりぎり間に合って悪家老を一刀のもとに斬る。
望みがあれば言って見ろ、といわれても清兵衛は妻の養生だけは約束だから受けるが他は望まない。
今は立ち上がることも出来るようになった妻と手をつないで明るい日差しの湯宿への道を歩いている。
収められた8つの短編、いずれもよく似たパターンだ。
うらなりのような顔をしているから「うらなり与右衛門」、いつも上司に大仰に挨拶をし荷物をもったりするから「ごますり甚内」、落語の「粗忽の使者」みたいになんでもど忘れする「ど忘れ万六」、無口な「だんまり弥助」、愚痴ばかり言う「かが泣き半平」(些細な苦痛と大げさに言い立てる、という方言)、派閥に属さない「日和見与次郎」、乞食(祝い人=ほいと)のようにむさくるしくしているから「祝い人助八」。
人は他人の欠点を見るというけれど、その欠点ゆえに揶揄され軽んじられている男たち。
実は彼らには普通の人間にはなかなか見当たらないような優れた長所があるのだ。
優しさ、公正さ、謙虚さ、孤立を避けない強さ、、、そして8人とも人には知られない剣術の達人だ。
そして藩内には派閥抗争がある。
藩政改革というのが曲者、一見切れそうな改革の家老が出入り商人と組んで私腹を肥やし専横を極める絶好のチャンスが“改革”なのだ。
藩財政の立て直しと言う名のもとの増税、新田開拓をめぐる利権、下級藩士や民は疲弊する。
そこで8人が必殺達人剣を振るう。
しかし彼らは破邪の剣を振るうというような大仰な意識はないのだ。
いわば藩政改革の波に巻き込まれて虫けらのように命を失った人を思っての復讐だ。
または嫁のトラブルを解決するための年寄りの冷や水(切れ味鋭い冷や水)だったりもする。
サラリーマン化した侍社会でうだつのあがらない下級武士8人の意地。
胸がすっとする。
ユーモア小説でもある。
今の日本にもいないかなあ。
新潮文庫
そう言えば、昔は酔拳とか言って酔ったふりして、相手を欺いて一発かます、みたいな技ってあって、そういうのが逆に粋だなーとかっこよく思えたもんですが
今は逆だもんね
馬鹿が利口のふりをするから、情けなくて見てらんない
その頃は藤沢周平を読んでいなかったのですよ。
強くなっても人を傷つける技術だから、そこを取り立てても意味ないんですよね、人を活かすためならいいんだけど、、強すぎるともう達観するしかない。
それにこういう人はいつの時代も目立たないと思います。
武道は自然体、目立ってはいけないから、、
目立つという事=不利、つまり達人じゃない。
きっといますよ、今の日本にも。目立たないだけで!
映画では、清兵衛は男やもめで、上意討ちが終わった後、後妻を迎えます。そして一転、ラストシーンに変わります。後妻役の岸惠子が、戊辰戦争で死んだ清兵衛の墓参りをしています。それに子供たちのナレーション、女手一つで私たちを一人前に育て上げてくれました、が被さります。
幕末の動乱で男たちが死んだ、その陰に、明治を創り上げた女たちがいたんだ、と山田洋次氏は言いたかったのかも知れません。
うだつの上がらない男たちが主人公の作品が多く、同様にうだつの上がらない男としての共感でしょうか。私は無理なく作品に感情移入できます。暗い作品が多いと言われていますが、読後感はむしろさわやかな気分になることが多いです。長編は「蝉しぐれ」短編は「橋ものがたり」が私のベストワンです。