夏の宿題は“思い出すこと・記憶の再生” 赤染晶子「乙女の密告」[芥川賞受賞)
2010年 08月 13日
アンゲリカという名の西洋人形をいつも連れて歩くバッハマン教授の「アンネの日記」のゼミは乙女の園、バッハマンが乙女と呼ぶからでもあり自分たちが乙女の身分・立場・キャラクターに浸っているからでもあるようだ。
乙女たちは真相よりも噂話を好み、どこかで乙女でないと判断した人間を仕分けする。
その判断基準のあいまいさ、偶発性、無責任性はナチスがユダヤ人であるか否かを判断したときと似ているのかもしれない。
いくら偶発的な客観性の裏打ちのない噂にもとずくものであっても乙女でないと決めつけられたら大ごとだ。
ユダヤ人・アンネが密告されてゲシュタボに捕まったのとは比べ物にならないけれど。
バッハマン教授のゼミでは「アンネの日記」の暗唱と弁論のスピーチコンテストが行われる。
「1944年4月9日 日曜日の夜」、「今や、今やわたしはまたも命拾いをしました」と書かれた凄まじい夜、「わたし達は今夜、思い知らされました。わたし達は鎖につながれたユダヤ人なのです」と書いた日の分を暗記する。
バッハマン教授は「アンネ・フランクはこの夜、本当に無事でしたか。本当に命拾いしましたか」と問いかけみか子は後じさりをする。
主人公・みか子はいつも同じ所で記憶喪失にかかってしまう。
「記憶喪失」は確かにスピーチの魔物だった。この魔物が引き起こすのは思いだしたいという欲求である。魔物は思い知らせるのだ。お前は忘れている。大事なことを忘れている。だからスピーチコンテストの女王・麗子様はいう。
それがスピーチの醍醐味なんよ。スピーチでは自分の一番大切な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう作業でしか出会えへんねん。その言葉はみか子の一生の宝物やよ。ユダヤ人であるという自己を棄ててオランダ人=他者になることでしか生きる望みがないまでに追い詰められたアンネ・フランクにとって「アンネ・フランク」という名前こそユダヤ人=自己を表す最後の砦だったから、あとに残されたわれわれはその名「アンネ・フランク」を決して忘れてはならない。
バッハマン教授はホロコーストが奪ったものは人の命や財産だけでなく
一人一人の名前が奪われてしまいました。人々はもう『わたし』でいることが許されませんでした。代わりに、人々につけられたのは『他者』というたったひとつの名前です。異質な存在は『他者』という名前のもとで、世界から疎外されたのです。ユダヤ人であれ、ジプシーであれ、敵であれ、政治犯であれ、同性愛者であれ、迫害された人達の名前はただひとつ『他者』でした。だからアンネ・フランクという名前を忘れてはならないのだ、という。
しかしともすればそこで私たちは記憶喪失になってしまうのではなかろうか。
少女漫画って読んだことがないけれど、もしかするとこんな感じなのかなあ。
敢えて軽いのりで可笑しげなエピソード(乙女の園を覗き見しているような)やホステスをしているみか子の母の酒臭い息を感じさせたりもしながら、この笑ってすませるべき一過性の世界が実はナチスによるユダヤ人迫害の世界と同じ構造になっていることを考えさせる。
噂があって、差別があって、密告があって、迫害があって、自己保身のための都合のよい忘却があって、、、。
切絵をOHPの上に置くと巨大な影となってスクリーンに映し出される。
俺の周りの卑小な日常もOHPで映し出したらナチスもびっくりかもしれない。
1944年4月9日の日記の最後の部分。
もし神様がこの戦争でわたしを生き残らせてくれたなら、わたしはお母さんがしてきたことよりもたくさんのことを成し遂げて見せます。ちっぽけな人間のままでいたくありません。わたしは世の中のために、人々のために働きたいと思います!そして、今やわたしは知っているのです。勇気と明るい気持ちこそが必要なのです。14歳で殺された、そしてそれに怯えながら自己であることさえ隠し、捨て去ろうとしていた少女の日記。
寝転がって読み飛ばした小説、こうしてタドタドシイ指先で書き写していたら胸がつまってきた。
日記の翻訳は作者。
8月は戦争を考える月でもあります。
確かに、そのレベルの大小、強弱はあるものの
こういった区別は世の中にあふれてる
人ってさ、どうして自分と異なったものに恐れを感じるんだろう
私は、いつもどこか変わってたので、どこに行ってもこの区別を感じていたし、今だに感じます
..って言いながら、もっとも自分の違いの目立つイタリアなんかに住んでるんだけどね――ははは
自分のアイデンテイテイをはく奪されることほど、す様じい暴力はないと思います。
私が、お金もらってもドイツにだけは足を踏み入れない、と思ってるのは、ナチスが、国民と一緒になって行った、ジェノサイドゆえだと思っています。
しかし、ホロコーストは絵になり易い、のも事実ですね。意味づけもし易いと言えそうです。私などはそうたかをくくって、深く、あるいは新しく考えなくなったきらいがあります。
作品によっては現代文学よりも優れています。
少女マンガはB級扱いですから、一般に知られていないけれど、現代文学に与えた影響は大きいです。
日本は文学よりも、マンガの方が優れていると言われる時代になりつつあるかも、、
漫画は読むというより見る感じで一冊10分くらいしか時間をかけられないのがダメなんです。
じっくり読むことができない、軽い男なんですねえ^^。
絵の細部を味わって漫画を読めればすてきなんでしょうが。
明日は終戦記念日、改めて戦争というものを考えてみなければと思いました。人として・。
ここにも名前を否定された被害者と加害者がいたのだと。
楽しみにしたい。
ブログで紹介させていただきました。
最後に胸がつまりました。
乙女たちのいろいろに比べてアンネの悲しみの大きさが感じられた、そのために書かれた小説かもしれません。