夏の宿題は“思い出すこと・記憶の再生”  赤染晶子「乙女の密告」[芥川賞受賞)

京都の外国語大学。
アンゲリカという名の西洋人形をいつも連れて歩くバッハマン教授の「アンネの日記」のゼミは乙女の園、バッハマンが乙女と呼ぶからでもあり自分たちが乙女の身分・立場・キャラクターに浸っているからでもあるようだ。
乙女たちは真相よりも噂話を好み、どこかで乙女でないと判断した人間を仕分けする。
その判断基準のあいまいさ、偶発性、無責任性はナチスがユダヤ人であるか否かを判断したときと似ているのかもしれない。

いくら偶発的な客観性の裏打ちのない噂にもとずくものであっても乙女でないと決めつけられたら大ごとだ。
ユダヤ人・アンネが密告されてゲシュタボに捕まったのとは比べ物にならないけれど。
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バッハマン教授のゼミでは「アンネの日記」の暗唱と弁論のスピーチコンテストが行われる。
「1944年4月9日 日曜日の夜」、「今や、今やわたしはまたも命拾いをしました」と書かれた凄まじい夜、「わたし達は今夜、思い知らされました。わたし達は鎖につながれたユダヤ人なのです」と書いた日の分を暗記する。
バッハマン教授は「アンネ・フランクはこの夜、本当に無事でしたか。本当に命拾いしましたか」と問いかけみか子は後じさりをする。

主人公・みか子はいつも同じ所で記憶喪失にかかってしまう。
「記憶喪失」は確かにスピーチの魔物だった。この魔物が引き起こすのは思いだしたいという欲求である。魔物は思い知らせるのだ。お前は忘れている。大事なことを忘れている。
だからスピーチコンテストの女王・麗子様はいう。
それがスピーチの醍醐味なんよ。スピーチでは自分の一番大切な言葉に出会えるねん。それは忘れるっていう作業でしか出会えへんねん。その言葉はみか子の一生の宝物やよ。
ユダヤ人であるという自己を棄ててオランダ人=他者になることでしか生きる望みがないまでに追い詰められたアンネ・フランクにとって「アンネ・フランク」という名前こそユダヤ人=自己を表す最後の砦だったから、あとに残されたわれわれはその名「アンネ・フランク」を決して忘れてはならない。
バッハマン教授はホロコーストが奪ったものは人の命や財産だけでなく
一人一人の名前が奪われてしまいました。人々はもう『わたし』でいることが許されませんでした。代わりに、人々につけられたのは『他者』というたったひとつの名前です。異質な存在は『他者』という名前のもとで、世界から疎外されたのです。ユダヤ人であれ、ジプシーであれ、敵であれ、政治犯であれ、同性愛者であれ、迫害された人達の名前はただひとつ『他者』でした。
だからアンネ・フランクという名前を忘れてはならないのだ、という。
しかしともすればそこで私たちは記憶喪失になってしまうのではなかろうか。

少女漫画って読んだことがないけれど、もしかするとこんな感じなのかなあ。
敢えて軽いのりで可笑しげなエピソード(乙女の園を覗き見しているような)やホステスをしているみか子の母の酒臭い息を感じさせたりもしながら、この笑ってすませるべき一過性の世界が実はナチスによるユダヤ人迫害の世界と同じ構造になっていることを考えさせる。
噂があって、差別があって、密告があって、迫害があって、自己保身のための都合のよい忘却があって、、、。
切絵をOHPの上に置くと巨大な影となってスクリーンに映し出される。
俺の周りの卑小な日常もOHPで映し出したらナチスもびっくりかもしれない。
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1944年4月9日の日記の最後の部分。
もし神様がこの戦争でわたしを生き残らせてくれたなら、わたしはお母さんがしてきたことよりもたくさんのことを成し遂げて見せます。ちっぽけな人間のままでいたくありません。わたしは世の中のために、人々のために働きたいと思います!そして、今やわたしは知っているのです。勇気と明るい気持ちこそが必要なのです。
14歳で殺された、そしてそれに怯えながら自己であることさえ隠し、捨て去ろうとしていた少女の日記。

寝転がって読み飛ばした小説、こうしてタドタドシイ指先で書き写していたら胸がつまってきた。

日記の翻訳は作者。
Commented by c-khan7 at 2010-08-13 14:34 x
今も戦争、内戦の中で、子供達はアンネフランクの気持ちを抱えながら息を殺している。
8月は戦争を考える月でもあります。
Commented by junko at 2010-08-13 18:06 x
Ciao saheiziさん
確かに、そのレベルの大小、強弱はあるものの
こういった区別は世の中にあふれてる
人ってさ、どうして自分と異なったものに恐れを感じるんだろう
私は、いつもどこか変わってたので、どこに行ってもこの区別を感じていたし、今だに感じます
..って言いながら、もっとも自分の違いの目立つイタリアなんかに住んでるんだけどね――ははは

自分のアイデンテイテイをはく奪されることほど、す様じい暴力はないと思います。
私が、お金もらってもドイツにだけは足を踏み入れない、と思ってるのは、ナチスが、国民と一緒になって行った、ジェノサイドゆえだと思っています。
Commented by saheizi-inokori at 2010-08-13 21:19
c-khan7 さん、そうなんです。夏は忘れてはならないことをちゃんと思いだして記憶を新たにする季節です。
Commented by saheizi-inokori at 2010-08-13 21:21
junko さん、人格を無視されるって辛い。死んだものとして扱われるのですから。
Commented by きとら at 2010-08-13 23:25 x
 ロミー・シュナイダーの『アンネの日記』以来、ホロコーストに関わる名作がよく創られていますね。風化させないという意志もさることながら、容易く風化してしまう歴史ではないのでしょう。
 
 しかし、ホロコーストは絵になり易い、のも事実ですね。意味づけもし易いと言えそうです。私などはそうたかをくくって、深く、あるいは新しく考えなくなったきらいがあります。
Commented by kaorise at 2010-08-14 00:03
少女マンガ、いい作品が沢山ありますよ、、
作品によっては現代文学よりも優れています。
少女マンガはB級扱いですから、一般に知られていないけれど、現代文学に与えた影響は大きいです。
日本は文学よりも、マンガの方が優れていると言われる時代になりつつあるかも、、
Commented by saheizi-inokori at 2010-08-14 10:00
kaorise さん、昔の「あんみつ姫」は覚えてるけどなあ。
漫画は読むというより見る感じで一冊10分くらいしか時間をかけられないのがダメなんです。
じっくり読むことができない、軽い男なんですねえ^^。
絵の細部を味わって漫画を読めればすてきなんでしょうが。
Commented by みい at 2010-08-14 11:12 x
最後の部分、胸にずしりときました。14歳なんですよね!
明日は終戦記念日、改めて戦争というものを考えてみなければと思いました。人として・。
Commented by saheizi-inokori at 2010-08-14 11:47
みい さん、生きていれば好いおばあちゃんになって孫たちに隠れ家の思い出を話しているかもしれません。
Commented by saheizi-inokori at 2010-08-14 12:01
きとら さん、今朝の新聞で細川元総理が慶州で創氏改名のことを謝った話を読んでちらっとこの小説を思い出しました。
ここにも名前を否定された被害者と加害者がいたのだと。
Commented by maru33340 at 2010-08-15 10:32
私も昨夜から今朝にかけてこの作品を読了しました。気になっていた作品でしたが、saheizIさんの記事を読んで、読む決心がつきました。ブログに感想記載しました。
Commented by saheizi-inokori at 2010-08-15 10:57
maru33340 さん、新しい才能かもしれないですね。
楽しみにしたい。
Commented by ハトリ at 2010-09-16 23:30 x
「乙女の密告」で検索し、
ブログで紹介させていただきました。
Commented by saheizi-inokori at 2010-09-17 09:02
ハトリ さん、私も最初は、なんじゃこれ?という気持ちで読んでいました。
最後に胸がつまりました。
乙女たちのいろいろに比べてアンネの悲しみの大きさが感じられた、そのために書かれた小説かもしれません。
Commented by ハトリ at 2010-09-28 09:56 x
逆説的に……、
そういう読み方もあるんですね。
平和な日本の乙女たちと比べて、
馬鹿馬鹿しいぐらい、哀しすぎますね。





Commented by saheizi-inokori at 2010-09-28 10:16
ハトリさん、乙女に限らず、、。
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by saheizi-inokori | 2010-08-13 10:34 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(16)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori