つわものどもが夢のあと 高橋源一郎「日本文学盛衰史」
2010年 08月 09日
主人公は石川啄木、二葉亭四迷、田山花袋、国木田独歩、夏目漱石、森鴎外、北村透谷、島崎藤村、幸徳秋水、、、高橋源一郎だ。
石川啄木が伝言ダイヤルで援交をしてアダルトビデオを見てはオナニーをする。
「ローマ字日記」のパロデイー、俺はNETで「ローマ字日記」の本物を初めて読んだ。
そうすると啄木が出入りの貸本屋から猥雑な本を借りたことや妻の節子や馴染みの芸者の体を思い浮かべたり東京で買った女郎の名前を書きあげているのだ。
パロデイーではなくて現代語訳とでもいうべきものかもしれない。
田山花袋は「蒲団」をアダルトビデオ化する監督になるのだが原作の「蒲団」が出演女優、アシスタントの現代アダルト監督たちにケチョンケチョンにけなされる。
ぜんぜん面白くない!本音はいったい何だ。気取るんじゃない!って。
花袋のいう自然主義「露骨なる描写」とはいったい何だったのか?と。
言文一致の言葉を創るところから始めなければならなかった明治の文学者たちの苦闘が時空を超えてパロデイー化して描かれることによって、その苦悩の限界や本質が明らかにされる。
夏目漱石は自分の勧めで石川啄木が大逆事件の直後に書いた「時代閉塞の現状」という文章を朝日新聞に載せなかった。
官憲の弾圧を恐れた池辺三山の意向に従ったのだ。
その、漱石の啄木に対する”裏切り”が「心」に描かれる「先生」と「わたし」と「K」の関係ではなかったかと高橋は推理する。
先日読んだカズオ・イシグロの「充たされざる者」を思い出す。
そこで使われた手法、過去と現在の自在な行き来、いろんな登場人物が主人公のドッペルゲンガーのように現れるところなどがどこか似ている。
漱石と啄木のクダリだけではなく、全編にわたって使われている手法。
松田は
結婚したら母親になるべきだ。(略)30歳をすぎてからの子どもはダウン症になる率が高いだけでない。という。
今ではお節介な話だろうが、松田の書は明治の官僚政府に端を発する“お上の期待する秩序への順応を呼びかける育児指導やその後の薬品メーカーや乳製品の会社との共存共栄を呼びかける育児指導に対する抵抗であった。
スポック博士は
家庭生活を最優先に考える人、地域社会に参加する人、文化的なことに関心をもって心を豊かにしていく人、仕事で人生をゆがめてしまうようなことのない人、そういう人に育てなければならないのです。(略)それは、いまや政治に強大な影響力をもち、政府の財源から何兆億円の予算を吸い上げている武器の製造業のような、特殊な企業から私たちの政府を切り離し、私たちのために働かせるために(政治に積極的にかかわるような市民に育てなければならない)、、。”明るい明治”の政治家、企業家、官僚、医者、、いや森鴎外などの文学者たちだってスポック博士や松田道雄の敵なのだ。
しかし、今子育てに政治のことを考えている夫婦はどのくらいいるだろうか(子ども手当や保育所は欲しいけれど、普天間のことを考えることはない)。
昨日新しかったものが、今日はもう流行遅れとなる。森鴎外がかつてこの国にあった礼儀について嘆いたように
皆滅び盡して、これに代わるものは成立してをらぬのだ。
そういう時代にいったいどういう文学が存在し得るのか?
応援の声は、藤井貞和の「ものの声」を引く高橋。
しいんとして、
野にこときれているんだ、
われら。
あの、息吹だけでも火傷しそうに熱かった文学の戦士たちはみんな死に絶えた。
応援の声もこときれた。
その詩には
昔、、、
信号機が降りてきた。
天からね。
という一節があるという。
何もない野っパラに突然天から信号機が降りてきて人々が戸惑う。
それが明治の文学天の原だったと高橋(天の原は俺の言葉だけど)。
若者(明治の文豪たち)の一途な文学への思い、それなのに何も見えていない哀れさ(今からみれば)、若くして死ななければならなかった不幸、、マジに涙が出た。
明治の文学者たちへの切実なオマージュであり、日本近代文学入門だ。
そしてスリリングな青春エンタテインメント小説でもある。
講談社
かわいいーーーーー!!
で、首に巻いてるのは、熱中症予防のグッズでしょ?
hisakoさんも買っていた
あーーはーちゃん
saheiziさんのようなゲテモノ喰いにはならないでくれ――
お兄ちゃん、ホントにますますお兄ちゃんらしくなってきましたね
孫たちは私の好きなものはたいてい好きですよ。
ホヤでもバジルを摺ってのっけた蛸とか。
熱中症予防グッズ、サンチにも買ってやりました。
私は手拭いで保冷剤をくるんで首に巻きました。
やはり佐平次さんの孫やなぁ~~
でもたしかに昔の作品はきっと面白くはないでしょう。
本書の中で漱石は後世の人が読むのは自分と啄木だというのです。
ウソを書くからだと。二葉亭は本当のことしか書かないから受け入れられないと。
偶然、昨晩あたまに浮かんで今なお、繰り返していある言葉です。
こどもは社会も育てていく役目がある訳で、だからこそ夫婦で普天間問題も会話に無いと、グロ−バルでおおらかな子育ては出来ない様な気がします。
もちろん、子育て経験の無い私が出しゃばり言うことではないと思いつつ。。。。。。。。。。。どうでしょう?
でも私は落第パパでした。家では楽しい話しかしなかった。むしろ子どものほうがチエルノブイリのことなど訊きたがったのに適当にはぐらかしてしまったんです。
反省、池上さんのような父だったらもっと違ったかもしれません。
一緒に川遊びをしたいですよ。
今だったら、小説家以外にも随筆家にもなれるし、言葉に歌をつけてフォークシンガーやロック歌手になってもいい、コピーライターや作詞家、脚本家、自分の特性にあわせて色んな表現を選べます。
この時代に産まれていたら、彼らはもっと違う形ではじけていたか、ひきこもりになっていたか、、どちらだったのでしょう、、。考えると面白いですね。
楽しむものだというのが吉田の考え方のようです。