若者は祖父の世代のやった戦争に責任があるのか? 宮崎哲弥のサンデル論

今日も朝日新聞から。
やはり「オピニオン」欄、宮崎哲弥の「サンデルの問い 現実を“私たち”から考える」という論文。
6月25日27日の2回にわたってサンデルの「これからの『正義』の話をしよう」について書いたばっかりだったのですぐに読んでみた。
宮崎は20年も前からサンデルに私淑してきたそうだ。
ちょっと前にチョムスキーの本にすっかり入れ込んで友人にその話をしたら、「俺がアメリカに留学していた頃から彼は結構有名だったよ」と言われてなんとなくギャフンとなったことを思い出した。

戦後生まれの世代は、父祖の世代の戦争にまつわる違法行為や反人道行為の責任を問われるのか。
「これからの、、」の第9章は、この問題が検討されている。
哲学上の問題ではなくてナチスのホロコースト、オーストラリアの先住民に対する苛酷な措置、アメリカのハワイ独立国を滅ぼした罪、日系アメリカ人の強制収容、解放奴隷に対する公約不履行、黒人への補償、、など現実に謝罪されたり論議の渦中にある問題なのだ。

結論からいうとサンデルも宮崎も責任を負うことについて肯定的だ。
私達は真空に生まれ落ちるのではない。共同世界の只中に生まれ、共同体から有形無形の資産を相続し、それらを養分として自我を形成していく。その中には共同体が過去に背負った負の財産も含まれる。
もう一度「こらからの、、」を取りだして第9章と第10章を読みなおしてみた。

サンデルは道徳的責任の三つのカテゴリーとして、正義を行い、残虐行為はしないなどの合意を必要としない普遍的な義務(自然的義務と呼ぶ)と個別的に合意に基づく自発的責務のほかに連帯の責務というものをあげる。
それは
一定の歴史を共有する人間に対する責任である。だが、自発的責務とは異なり、そうした責務は同意という行為に基づいているわけではない。その道徳的な重みの源は、位置ある自己をめぐる道徳的省察であり、私の人生の物語は他人の物語とかかわりがあるという認識なのである。
たとえば家族への責務、二人の子供が溺れそうになっている時に一人しか助けられない場合、自分の子供を優先すること。
育児を放棄した親を介護する責務。
移民制限の是非。
いくつかの実例をあげてどう考えるかを読者に問う。

サンデルは共同体への忠誠を否定しないどころか肯定的とも見える。
自然的義務に反してまでも連帯への忠誠を選んだ人について
われわれが彼のような人に共感するだけではなく、敬服もするのは、必ずしもその選択ばかりではなく、その考え方に表われる人格ゆえなのだ。われわれが称賛するのは、熟慮の上でみずからの位置を定める存在として、自分の生きる状況を理解し受け入れる気質である。こうした存在は、歴史によってある特定の生活に巻き込まれているのだが、その特定性を自覚しており、対立する主張やより広い可能性にも敏感である。人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を意識して生きるということなのだ。
と書いている。
エゴイズムの肯定ではないのだ。

俺は今までどちらかというと身びいきみたいなのが嫌いだった。
それが公正というものだろうと思っていた。
しかしよく考えてみると、それは身うちのために何かをするということをエゴイズムの発露としかとらえてなかった。
自分たちばっかりいいことをするのはずるい、みたいな。
人生ではそういうレベルのことばかりが起きるのではなくて生きるか死ぬかのレベルの問題も起きる。
そういうときに浅薄な公正意識はあっという間にどこかに消えて、極端なエゴ丸出しになりかねない。
重荷として意識をしてはいないのだ。

それはともかくサンデルや宮崎のいうところに対しての現下の問題は、俺がそうであるように多くの日本人が、みずからの物語を喪っている、またはそんなことを考えもしないことにあるのではないか。
なにか右翼反動主義者の言いそうなこととしか考えない。

本書に引かれているマッキンタイアが「ナチスのしたことは1945年以降に生まれたわれわれには道徳的関連性がない」というドイツの若者の姿勢を浅薄なものとして批判する言葉
私の人生の物語はつねに、私のアイデンティティの源であるコミュニティの物語のなかに埋め込まれているからだ。私は過去を持って生まれる。だから、個人主義の流儀で自己をその過去から切り離そうとするのは、自分の現在の関係をゆがめることだ。
このところとみに子供の頃のことを考えるようになったのは、年のせいばかりではなく”アイデンティティの源であるコミュニティの物語”を探して意識の上に浮かべようとする願望なのかもしれない。
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Commented by gakis-room at 2010-07-22 11:41
歴史の連続性を受容するということは必要であると思っています。しかし,歴史への責任ということについては私には分からないことが多すぎます。

過去の歴史に責任を負うと言う場合,その歴史とは無限に遡るのでしょうか。

また,父祖の世代の不法行為に責任を負うと言う場合,国家としては国家としての謝罪あるいは補償をすることによって政治的には終結しますが,道徳的にはけして終結しないのでしょうか。

また,国家の不法行為に対して,国民の1人としては責任を負うと言う場合,それは不法行為の対象となった国の1人1人に対して道徳的債務者として向き合うということでしょうか。

宮崎氏の所論も読んでいませんし,サンデルについても何も知りませんので,見当違いの疑問かも知れません。
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-22 13:35
gakis-room さん、やっとコメントが!ありがとう。
その点がもっとも問題になるところでしょうね。
どこまでのレベルでどのような責務を負うのか。
一義的な解答は無論ありえないと思います。
だからサンデルは人格の問題を持ちだしているのじゃないかと思います。
打算とか取引のレベルではなくて自然的な義務と同じようなものとして慎重に考え抜かなければならないと。
宮崎も同じような問題を指摘しています。
彼は「リベラルとコミュニタリアンの双方を止揚したところに」これからの正義は見えてくると結んでいます。
ハーヴァードの学生たちの一部には評判の悪い所説でもあるようです。
サンデルの本を読んでいると少しづつその意味が分かるような気がしてきます。
Commented by junko at 2010-07-22 16:09 x
Ciao saheiziさん
ハハハ、saheiziさんの困ったチャン顔みたら、
saheiziガールズ(ん??ガールズ??どうでもいいね、無視してください)
の私としては、来ないわけにはゆかんでしょーが――
たとえば、↑の冷やし中華の向こうにsaheiziさんの小気味よさそうな、意地悪な笑顔を見たとしても  だよーー
それが、女の仁義ってもんさ――
と前置きは長くなりましたが
共同体への忠誠は、個人主義である私にはない
忠誠という言葉に、義務のようなものを感じて、素直にはいと言えないのです
共同体に忠誠できないのは、共同体が私の忠誠に値するかどうかが疑問だから
要するに、強い人が弱い人を守ってあげる、助けてあげるってのはいいんだけど、、守られるほうに、守ってもらえばいいやという甘えや打算もしくは、過剰な期待があった場合
やってやるもんかと思う
基本は一人一人の自立、もしく自立しようとする意思にかかっている
それがなくて、弱者弱者と言ってると、社会が弱者中心になり、弱者自身も力を蓄えることなく社会全体の機能が落ちる

Commented by junko at 2010-07-22 16:10 x
続き

私が人に冷たいと言われるゆえんはそこです
まずは、自分でやってみろ
それでだめなら、いくらでも助けてあげる
でも始めから手放しで、起こしてくれと言われたら、
私は放っておくね
話しがずれちゃったかもしれないけど
戦争にまつわる違法行為や残虐行為は
まず、謝罪すべきでしょうね
過去に私の祖先もしくは、私の国が犯した罪は、私の罪ではないけど、私が償い、補修しなければいけないものであると思います。
それは、より良い未来を築くため
臭いうんこの上に、家は建てたくないしね ははは
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-22 20:53
junko さん、>過去に私の祖先もしくは、私の国が犯した罪は、私の罪ではないけど、私が償い、
そこですよね。
それは自己をどうとらえるかにかかっていると思いますよ。
まったく何ものにも左右されない独立した自分だったら祖先のことなんか関係ないはず。
たとえ功利主義。現実主義でそうした方がいいと考えたにしても、関係ないことでは謝らないでしょう?
たとえば誰かが大事なものを盗まれたのはjunkoさんのせいだと濡れ衣を着せた場合に謝らないでしょう。
弱者をどうするかとはちょっと違う噺です。
Commented by cocomerita at 2010-07-22 22:31
Ciao saheiziさん
弱者の話をしたのは、共同体にかかわる上に置いての一番のポイントではないかと思うからです
共同体に対する忠誠を私はそう解釈しました
共同体ってやっぱどっかでお互い補い合わなきゃいけないものでしょ
だけど わけもなく、自分の先祖でもなく、国でもなく、全くの赤の他人の罪を代わりに償う気もなければ、ただよっかかりたい人々に肩を貸しつづけるのも躊躇すると言うことです
Commented by saheizi-inokori at 2010-07-23 08:39
cocomerita さん、私の言葉が足りなかったかもしれません。
たしかに共同体員の義務のうち弱者をどう救うかはまず問題ですね。
サンデルが問題提起しているのは弱者を救済するとしてたとえば家族、地域、国家を同じくするがゆえにそこに属さない人たちと差をつけてもいいのか、ということです。
まず自分の子を優先するのは当たり前?でもそれはどこからくるの?
外国人に対する参政権の問題とかこの間の子ども手当の支給の可否など利害打算だけではなく根っこに共同体への忠誠、歴史的なものも含めての共同体側からの恩恵みたいなものをどう考えるかの問題が関わってくる。
上のGAKISさんへのレスでも書いたようにそれはこうだという標準とか基準があるわけではなく人々がじっくり自分の全人格で考えていくことのようです。
junkoさんはイタリアに住んでいるからこの問題については私などよりずっと日々の問題としてピリピリ感じるのではありませんか?
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by saheizi-inokori | 2010-07-21 12:35 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(7)

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