渡辺京二さんの凄さ!爪の垢でも飲まなくちゃ 高山文彦「熊本で世界を描く万年書生」
2010年 06月 02日
長く生きれば今のように寄席だ映画だということはなくなるから金もそうはいらないかと思うが、その分医療費が増えるだろうとか。
なまくら頭をガツンとやられた。
鳩山政権をオバマがどうみたかという小文を読むつもりで買った文藝春秋に「足るを知るひと」という特集があって、その中に高山文彦が渡辺京二のことを書いている。
「逝きし世の面影」、「黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志」の著者だ。
「火花 北条民雄の生涯」でハンセン病をめぐる悲惨やそれをむしろ推し進めた行政の非道と患者であった北条の火花のように短く輝いた人生を描いた高山文彦(そうだ「麻原彰晃の誕生」もこの人だった)が熊本に住む渡辺京二をたづねて、ついでに施設に住んでいる83歳の石牟礼道子のもとを一緒に訪問する。
渡辺は石牟礼とは“全身の毛穴から血の汗が噴き出るような水俣病闘争”をともに闘った仲、今は毎週2日彼女を訪問して“彼女の編集者として自分の健康と命がつづくかぎり彼女につくそう”としている。
その情景のなんとあたたかいことか。
渡辺は「黒船前夜」を準備期間から連載終了後の補筆・修正まで1年8カ月しか時間をかけていない。
私はいま79歳、まだ頭も手も使いものになると自信を新たにできたのは、何よりのことだった。旧制第五高校に入学して直ぐに喀血、闘病生活の長い渡辺は独学で史論を書く。
右でも左でもなく
歴史は裁くことではなく、理解すること。そして親鸞を書くときに人間に救いはないという絶望こそが親鸞思想の根本であり、しかしながら
批判するよりも、なぜそういう風にあらざるを得なかったかを理解しなければ
救いなき身であればこそ救いはすでに現前している。と書く在野の研究者だ。
絶望のないところに救済の要請があるはずはない。救われぬからこそ救われなければならない。
月々30万円の収入がある。
家計費に10万入れて、本代に10万、石牟礼さんのところに行くタクシー代が5万、あとの5万はガールフレンドとのデート代(10年前に妻を亡くしている)。
高山が“今噛みしめている”として伝える渡辺の言葉。
僕は万年書生なんです。自分がいったいどこの国の人間なのか、男なのか、女なのか、それもわからない。もうひとつ。
宿命を受け入れるというのが本当の意味の自由だと思います。俺も噛みしめている。
らい病とかハンセン病といっても若いものには何のことかわからないかもしれない。
人類最古の不治の病とされこれにかかると親類縁者から縁を切られ戸籍までぬかれた。
鼻が欠け目が見えなくなり体がぐずぐずにこわれていく。
医学の怠慢からきちんとした研究もされなかったためにアメリカで発見された特効薬が日本にきたのは戦後のことである。
法律で罹病者は強制的に隔離病院に収容され外部との接触が禁じられ、病人同士でも結婚を認められず非公式に女性病室(複数患者同居)へ「通い婚」が認められる場合は「断種」手術がほどこされた。
らい病撲滅のために患者の人権は無視された。しかも間違った病気観で。
幼い子供も訪れる親とて無く体が腐っていくのを我慢するしかなかった。
寂しくなると病院の中に拵えた「望郷台」に登り「お母さん」と呼ばわった。
死んでも骨を引き取る親はまれだった。骨からもウツルとされた。
今ではその伝染性もきわめて低く治る病であることがはっきりしている。
そういうことがわかってからも「らい予防法」が廃止されるのには平成8年まで待たなければならなかった。
こんなひどい措置を推し進めた張本人光田健輔は「らい救助の父」として文化勲章までもらっている。日本の役人たちの(政治家も)非人間ぶりを示す事例だ。
このノンフイクションはこうしたらい病の悲惨、行政のひどさを余すところなく暴くが、メインは北条民雄である。
この名前は筆名でありホンの中でも本名は明かされない。今でも本名がわかると親類縁者にどういう迷惑がかかるかも知れないのだ(遺伝による、とかのろわれた血という考え)。
彼は「いのちの初夜」という小説でその名を不朽のものとして23歳で死ぬ。16歳で発病、20歳で入院、常に死を考えその中で生き抜くことを考えた。
川端康成(文通が主体、川端の人間としての凄さ、素晴らしさがこの作品で明らかにされる)と数少ない友人(患者)に支えられ、らい病棟を舞台に衝撃的作品を発表する。
あまりにも短い、しかし普通の人間が何年生きても経験しないような、「命」と生きることについての煩悶に満ちた“火花”のような人生。
人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのもの。、、“人間”はもう死んで亡びてしまって、、、ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょうらい病者を描くこの言葉が彼の生き方でもあったのだ。
一読の価値はあります。
そんな葛藤をほおばりながら、辞任のニュースを観ているのでしょうね。
高山氏の『エレクトラ』(中上健次の評伝です)、読まなければと思いながら、そのままになってます。
読みたいと思えばすぐに読む、それが自由かな? できるのに、そうしない。自分で自分の自由を束縛しているのかな?
話変わりますが、私は足るを知る境地にはなりえませんが、小沢氏や真紀子氏には足るを知って欲しいですね。
是非又おいで下さい。