もうちょっと生きて欲しかった 平岡正明「立川談志と落語の想像力」
2010年 04月 21日
2001年9月9日、NYテロの2日前、談志は東京芸術劇場に出た。
志ん朝の代演だった。
開口一番
そのときの談志の心の動きを平岡は推測する。
枕に小咄を9連発、そのうち二つに「死」が出てくる。
噺は「金玉医者」
お嬢さんの気鬱、いろんな医者が診ても治らない。
上州館林にいる変な老人に診せると直ぐに治った。
どうしたか?
なあに、フンドシを緩めて、診察していろいろ話している内に、タマタマがポロッと見えた。
お嬢さんは笑った。
笑って治った。
この噺を枝雀のやり方でやった。
談志はこの日、志ん朝の病気と枝雀の死を受けて話したのだ。
しかし、志ん朝はそれからひと月とたたず10月1日に亡くなる。
サミー・デイビスJr.が癌で死ぬ前にマイルスが見舞いに行って、痩せ細ったサミーに「お前頭がデッカクなっちまったなあ」と笑わせた噺を思い出す平岡。
「志ん生的、文楽的」や「大落語」、「シュルレアリスム落語宣言」など、なんど読んでも発見のあるスリリングな落語の読みを語ってくれた平岡正明は去年7月に脳梗塞で亡くなった。
享年68。
(彼の死の前2年ほどに雑誌などに発表されて単行本未収録の落語に関する文章を集めてこの3月に出版された)
平岡が1941年本郷に生まれ、38年に志ん朝が本駒込に生まれ、36年に談志が小石川に生まれた。
つまり同じ文京区に生まれ同じようなところで育った。
そのことが本書では特に重要だ。
解説で田中優子が
平岡は談志の「幽霊の遊び」の舞台を自分の子供の頃(江戸時代ではなく)の根津と推測するのだ。
自分の育ってきた過去の思い出のあれこれが落語論に絡んで語られる。
それはいつものことなのだが本書では格別の感傷を誘われた。
俺も東京ではないけれど同じ時代を少しは知っているだけに妙に懐かしい気分もあって、うん、そうそう、そんなだったなあ、などと頷きながらあの時代に浸る、と、その平岡が今はいないということが突然思い知らされて、、なんとも、、だった。
(え~、犬の目を抜いちゃうなんてヒドイ噺があったもんで、、なにい?干しといた人間様の目玉を食うからいけないって?ありゃあ、ワン罪、いや冤罪というもので隣の三毛が食っちゃったんですよ)
「公評」9年8月号に載っているのだから死の直前に書いたものだろう。
「第三の先輩、麻生芳伸」という評論は平岡の出た京華高校の先輩・麻生のこと、とくにその死を書いている(「落語の内容にズバッと入れればいいのだが、入院中、過去のことばかり考えていたので、、」という言葉が出てくる)。
平岡は麻生に会ったことがないけれどその事績と能力を尊敬している。
さらっと書いているが痛惜の念が伝わる。
今頃さぞかし自由にやっていることだろう。
生きている時だってあれだけ自由奔放、縦横自在、天空を行くがごとき論をなした人が今どうしているか、俺には想像もつかない。
ジャズ、歌謡曲、映画、ルポルタージュ、、広い範囲に自在な筆をふるった平岡が最後に書いたのが落語論であったこと。
その最初と最後を彼の愛する二人の死をめぐって書いていること。
自分の死(脳梗塞)が迫っていることは知るよしもなかったはずだ。
七つ森書館
志ん朝の代演だった。
開口一番
アー、オー(発声練習)、こういう客が志ん朝と圓歌の客か、よく来たと感謝しろよ。「志ん朝ファンは落語ファン、談志ファンは談志のファン」、「俺が今金を払っても聴きたい落語家は志ん朝ただ一人」という談志が志ん朝の代演を頼まれて、ライバルの病状に不吉なものを感じて、ふだんなら断るところ、池袋に向かった。
そのときの談志の心の動きを平岡は推測する。
枕に小咄を9連発、そのうち二つに「死」が出てくる。
噺は「金玉医者」
お嬢さんの気鬱、いろんな医者が診ても治らない。
上州館林にいる変な老人に診せると直ぐに治った。
どうしたか?
なあに、フンドシを緩めて、診察していろいろ話している内に、タマタマがポロッと見えた。
お嬢さんは笑った。
笑って治った。
この噺を枝雀のやり方でやった。
談志はこの日、志ん朝の病気と枝雀の死を受けて話したのだ。
しかし、志ん朝はそれからひと月とたたず10月1日に亡くなる。
サミー・デイビスJr.が癌で死ぬ前にマイルスが見舞いに行って、痩せ細ったサミーに「お前頭がデッカクなっちまったなあ」と笑わせた噺を思い出す平岡。
「志ん生的、文楽的」や「大落語」、「シュルレアリスム落語宣言」など、なんど読んでも発見のあるスリリングな落語の読みを語ってくれた平岡正明は去年7月に脳梗塞で亡くなった。
享年68。
平岡が1941年本郷に生まれ、38年に志ん朝が本駒込に生まれ、36年に談志が小石川に生まれた。
つまり同じ文京区に生まれ同じようなところで育った。
そのことが本書では特に重要だ。
解説で田中優子が
(本書の談志論で)平岡にとって落語は、自分の生まれ育った江戸東京の空間を縦横に走り回る「自在なる場所」であった。と書いている。
私は平岡正明を通して、落語とは聞く者の想像力の極みであることを知った。
平岡は談志の「幽霊の遊び」の舞台を自分の子供の頃(江戸時代ではなく)の根津と推測するのだ。
自分の育ってきた過去の思い出のあれこれが落語論に絡んで語られる。
それはいつものことなのだが本書では格別の感傷を誘われた。
俺も東京ではないけれど同じ時代を少しは知っているだけに妙に懐かしい気分もあって、うん、そうそう、そんなだったなあ、などと頷きながらあの時代に浸る、と、その平岡が今はいないということが突然思い知らされて、、なんとも、、だった。
「公評」9年8月号に載っているのだから死の直前に書いたものだろう。
「第三の先輩、麻生芳伸」という評論は平岡の出た京華高校の先輩・麻生のこと、とくにその死を書いている(「落語の内容にズバッと入れればいいのだが、入院中、過去のことばかり考えていたので、、」という言葉が出てくる)。
平岡は麻生に会ったことがないけれどその事績と能力を尊敬している。
さらっと書いているが痛惜の念が伝わる。
麻生先輩と組もうかと考えている。死んだ人と?そうだ、亡くなったから組めるのだ。と書き
なぜ彼のような人物が必要かと言うと、落語評論の現在の水準の低さへの不満だ。これが本書の最後の言葉だ。
俺の落語論はこれまで作品の臨床的な分析であって、落語状況の外で妖雲となってたなびいているが、ドシャーと一雨降らし落語という世界文藝上も独自なもので地軸を洗いたい。
言ったでしょ。言論の自由とは妄想の自由と冗談の自由だって。
俺が自由にやるためには、パートナーは死者でもいい。
今頃さぞかし自由にやっていることだろう。
生きている時だってあれだけ自由奔放、縦横自在、天空を行くがごとき論をなした人が今どうしているか、俺には想像もつかない。
ジャズ、歌謡曲、映画、ルポルタージュ、、広い範囲に自在な筆をふるった平岡が最後に書いたのが落語論であったこと。
その最初と最後を彼の愛する二人の死をめぐって書いていること。
自分の死(脳梗塞)が迫っていることは知るよしもなかったはずだ。
七つ森書館
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c-khan7 at 2010-04-21 19:04
もと、おもとは何処だ。もとは犬でございます。ワン。
マイルスの一言、オシャレですね。
マイルスの一言、オシャレですね。
0
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saheizi-inokori at 2010-04-21 19:39
c-khan7 さん、「元犬」ですね。
これは目をくり抜きはしません。「犬の目がシュールです。
これは目をくり抜きはしません。「犬の目がシュールです。
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旭のキューです。
at 2010-04-21 20:57
x
サンチ、可愛いですね~先日、J城さんから「また、やりたいからまとめてくれ」と言われました。都合など教えてください。
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saheizi-inokori at 2010-04-21 22:50
旭のキューです。さん、了解です。連絡します。
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kaorise at 2010-04-22 01:41
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saheizi-inokori at 2010-04-22 08:51
kaorise さん、サンチを連れていける寄席がないかなあ^^。
きっと覚えると思うけど。
きっと覚えると思うけど。
by saheizi-inokori
| 2010-04-21 12:56
| 今週の1冊、又は2・3冊
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