白鳥の歌か 立川談志「談志 最後の落語論」

落語とは、人間の業の肯定である。
知る人ぞ知る談志のテーゼだ。
それを今の談志は「落語とは、非常識の肯定である」と言い換える。
さらに、その「非常識」を凌駕するものとして「自我」ということを考える。
人間の奥底にある「なんともまとまらない部分」のすべて

を「自我」といい、その自我の肯定が「人を殺しても構わない」落語だという。

自我の集大成であるかのようなワンフレーズ、そのために落語をやっているといってもいい。
「寝床」で「それから番頭さんはどうしたんですか」
「ドイツへ行っちゃうらしい」
「猫と金魚」で「番頭さん、金魚、どうしたい」
「私、食べませんよ」

そういう、「自我」の発散・肯定を聴いて自己の自我を揺さぶられた人が落語通になるのだ。
文楽の「酢豆腐」で、女にモテル奴が、のろけるところで「うふぅ~ん」
「うなってやんな」
何ともいえない落語のフレーズ、それは落語家の了見とセットになっている。つまり、文楽が演るから面白いのであって、別の落語家がそのままそっくり真似て演っても、面白くない。(略)文楽の了見の理解(わか)る落語家が演れば、文楽の了見に入ることができるだろう。
了見、落語家がよく使う言葉「考え方」とか「生き方」、、「スタイル」とでもいうか。
俺は文楽の「酢豆腐」を時々聴くけれど、上の「うなってやんな」のくだりではいつもにやっと笑ってしまう(腹の中で)。
俺も文楽の了見がわかるってことかもしれない。
でもわからない人はどこが面白いかと思うだろう。
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70を過ぎてから志ん生よりもその師匠であった初代柳家三語楼が”すべてのもと”ではないかと思うようになったという。
ポンチ絵派といわれ安藤鶴夫など文士たちに拒否されたけれど、三語楼やその弟子である金語楼、権太楼(初代)にも受け継がれた一見ナンセンスなギャグ。
それはものごとの本質を突き、自我を揺さぶる物凄さがあった。
志ん生のギャグは全部、三語楼だと思っていいのではないか。
今夜さっそく三語楼を聴こう。
落語の凄さ、狂気、自我は圓朝よりも前の江戸時代の庶民のもの。
圓朝なんて“女子供“の見る流行だった。
圓朝よりも権太楼(初代)の方がずっと上だ。
権太郎も聴こう。
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落語はお客さまのためにやるんじゃなくて
俺が存在するから客がいる。

俺の好きな客だけを相手に落語を演ろう。
傲慢といわれ敵だらけの談志の哀しみ。
面白くもないところで笑う客、
笑うな、この野郎。
”テレビに出ることが最高に嬉しい”ような落語家がずんずん伝統を踏みにじって、ただ笑えば嬉しい客が高額なチケットを手に押し寄せる。
談志は“飽きた”という。
もう立川談志に狂気の連続、進歩、発見はない。老いたからか。違う。活力がないのだ。待てよ、それを”老いた”というのか。
どうでもいい。“僕、疲れた”である。
多くの人が「辞めちゃ駄目だよ。居て下さいよ」というが
結果は、自己嫌悪にかられながら落語家人生をズルズルと送るのだろう。
嫌だ嫌だ、そして怖い。
一貫した主張・信念と深く鋭い観察・考察。
好きと嫌いを問わず落語好きには一読の、いや繰り返し読む価値がある。

梧桐書院
Commented by きとら at 2010-04-17 22:55 x
 談志の「業の肯定」は意味内容が余りにも広すぎませんか?
 
 「芝浜」が業の肯定なら『息もできない』も業の肯定ですよ。
 
 
 一方、枝雀の「緊張の緩和」は内容が狭すぎますね。
 
 談春なら、どう言うでしょうねぇ。
Commented by saheizi-inokori at 2010-04-18 09:12
きとら さん、談志は「芝浜」そのものに疑問をもっているのですね。
最後に女房が「もう一緒に飲んじゃおう!」バージョンをやったそうです。
「緊張の緩和」は落語の定義でしたっけ?「面白さの要素」のひとつとしていたような気がします。
談志は枝雀が自分ともっと話していれば死ななくて済んだのではないかと書いています。
枝雀が避けたらしい(談志によれば)。
談春は?「赤めだか」に目を通してみましたが、そういうことには触れてなかったように思います。
Commented by maru33340 at 2010-04-18 09:33
談志の実演に接していない僕には、その定義を云々する資格はありませんが、「もし枝雀が…」という台詞は、わからないではありませんが、どうも傲慢に過ぎるような…そんな所にいままで、談志の高座を敬して遠ざかっていた理由があるのかも知れません。(しかしこれも食わず嫌いの一種かも…)
Commented by saheizi-inokori at 2010-04-18 09:39
maru33340 さん、好き嫌いでいえばやっぱり小三治の方がはるかに好きです。
でもいうことにウソはない(少ない)、偽悪趣味というより正直なんでしょうね。そしてとことん突き詰めています。
彼は「金を払っても聴きたい落語家は志ん朝、ただ一人」とも言ってますね。
「赤めだか」に描かれる小さんとの葛藤(の最後)には打たれます。
Commented by きとら at 2010-04-18 22:39 x
 失礼しました。
 談志の偉ぶったところが嫌いなものですから。
 
 枝雀なら「業の克服」と言ったかもしれませんね。そして、もしかすると談志との交流が枝雀の自殺を押しとどめるきっかけになったかもしれません。大阪には枝雀と同じ深みで落語やものごとを考える噺家はいそうにありません。
Commented by saheizi-inokori at 2010-04-18 23:21
きとら さん、先日聴いた文珍も明るいですね。悩みなんてなさそう。もっとも腹の内はわかりませんが。
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by saheizi-inokori | 2010-04-17 13:12 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(6)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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