井上ひさし 常用漢字 武藤康史「国語辞典の名語釈」
2010年 04月 14日
井上ひさしが亡くなった。
改めて彼の著作リストを眺めていると結構読んでいるのに気がついた。
ずいぶん長い間、ひとまわり大きな先輩と共に生きてきたような気がする。
何の関係もないし、まして会ったこともないけれど、そういう親しさを感じさせてくれた。
読んだ中で「言葉」に関連した本をあげてみると、「国語事件殺人辞典」「私家版日本語文法」「自家製文章読本」「ニホン語日記 1-2」「井上ひさしの日本語相談」「國語元年」(テレビドラマになってちあきなおみが出たのを覚えている)、このほかにたとえば「吉里吉里人」などの言葉についての主張が含まれている作品は多い。
井上に敬意を表したわけではあるまいが文化審議会が常用漢字の見直し案をまとめた。
明鏡国語辞典の北原保雄が、いまや漢字のほとんどはパソコン入力を前提としているのだから手書き前提の時とは考え方を変えるべきだとコメントしていた。
まったく、だ。
三鷹市の「鷹」が常用漢字でなかったし今回も追加が見送られたということにどういう意味があるのか分からないが、「鷹」には俺は苦い思い出がある。
部下の結婚式に主賓で招かれたのが三鷹市に住んでいた頃、受付で住所を書かされるはず、主賓だもの毛筆でやっちゃろ、ついては練習して行こうと思った。
やってみたらわかるけれど「鷹」の字を筆で書くと大きくなりすぎたりして、「三」が簡単なだけに、なかなか恰好が取れない。
あーでもないこーでもないと練習している内に思いのほか時間が過ぎて、日曜日の交通事情のせいもあり芝浦のホテルに飛び込んだ時は、すでに全員着席して新郎新婦の入場を待つばかり、署名どころではない、せかされるままに席についたときの身の縮む思い!
国語辞典といえば、初めて買ったのは小学校の時「明解国語辞典」だったと思う。
嬉しかったなあ。
あの匂い、紙の手触り、細かな字がたくさんあって、未知の世界への入口みたいに蠱惑的だった(「蠱」の字、今度も常用漢字になってないなあ、マイクロソフトもいっぺんには変換できない、保守的ですね)。
武藤康史「国語辞典の名語釈」には「明解国語辞典」が昭和18年に誕生したときのいきさつが書いてある。
この辞典は見坊豪紀が一人で編纂した。
見坊は当時東大国文科の大学院学生、25歳、金田一京助の紹介で三省堂に編集方針を説明したそうだ。詰襟だった。
「引きやすいこと」、見出し語のかなづかいを完全な表音式にした。
「わかりやすいこと」、文語文をやめた、動物や植物の説明も図鑑のまる写しみたいなのをやめて一般の用語で分かりやすく書きなおす、難しい漢字には仮名を添える、、など。
「現代的なこと」、語彙選定の標準として、現代の標準的口語を採録する、外来語を積極的に入れる、ただし“敵性語”とのそしりを免れるように注意しながら。
見坊は同潤会江戸川アパートに移り住み大学にも行かず、辞書の原稿を書いてほぼ一年で完成させる。
彼は高校時代「漱石全集」全19巻を読破、特徴のある表現をノートに書き取っていたという。
俺も高校時代、古文の勉強で「けり」「らむ」、、などの意味別の用例を教科書や試験問題に出てくるとノートに書き取っていたことがある。
今は古文も英文も読めない。見坊とは大きな違いだ。
大西巨人の小説では「辞書を引用する」という場面がよくある、と武藤はいう。
その引用の仕方は”ズバリ書名を挙げ、語釈も略さず写す凛然たる引用法”が特徴なのだ。「精神の氷点」という大西が28歳の時に書いた小説を81歳で加筆訂正した際に「治安維持法」を説明するのに広辞林[1934年新訂版]を引用する場面で「ちあんゐじはう」と書いている。
1943年新訂版の広辞林では現代かなづかいになって「ちあんいじほう」だった。
加筆訂正する前の小説では正しく引用されていたのをわざわざ間違って直してしまったのだ。
それを武藤は
辞書をめぐるユーモアと味わいに富んだ本、博学にな、、るわけはない。
日本辞書史年表なる貴重な資料を作って添付してある。
ちくま学芸文庫
改めて彼の著作リストを眺めていると結構読んでいるのに気がついた。
ずいぶん長い間、ひとまわり大きな先輩と共に生きてきたような気がする。
何の関係もないし、まして会ったこともないけれど、そういう親しさを感じさせてくれた。
読んだ中で「言葉」に関連した本をあげてみると、「国語事件殺人辞典」「私家版日本語文法」「自家製文章読本」「ニホン語日記 1-2」「井上ひさしの日本語相談」「國語元年」(テレビドラマになってちあきなおみが出たのを覚えている)、このほかにたとえば「吉里吉里人」などの言葉についての主張が含まれている作品は多い。
井上に敬意を表したわけではあるまいが文化審議会が常用漢字の見直し案をまとめた。
明鏡国語辞典の北原保雄が、いまや漢字のほとんどはパソコン入力を前提としているのだから手書き前提の時とは考え方を変えるべきだとコメントしていた。
まったく、だ。
三鷹市の「鷹」が常用漢字でなかったし今回も追加が見送られたということにどういう意味があるのか分からないが、「鷹」には俺は苦い思い出がある。
部下の結婚式に主賓で招かれたのが三鷹市に住んでいた頃、受付で住所を書かされるはず、主賓だもの毛筆でやっちゃろ、ついては練習して行こうと思った。
やってみたらわかるけれど「鷹」の字を筆で書くと大きくなりすぎたりして、「三」が簡単なだけに、なかなか恰好が取れない。
あーでもないこーでもないと練習している内に思いのほか時間が過ぎて、日曜日の交通事情のせいもあり芝浦のホテルに飛び込んだ時は、すでに全員着席して新郎新婦の入場を待つばかり、署名どころではない、せかされるままに席についたときの身の縮む思い!
国語辞典といえば、初めて買ったのは小学校の時「明解国語辞典」だったと思う。
嬉しかったなあ。
あの匂い、紙の手触り、細かな字がたくさんあって、未知の世界への入口みたいに蠱惑的だった(「蠱」の字、今度も常用漢字になってないなあ、マイクロソフトもいっぺんには変換できない、保守的ですね)。
武藤康史「国語辞典の名語釈」には「明解国語辞典」が昭和18年に誕生したときのいきさつが書いてある。
この辞典は見坊豪紀が一人で編纂した。
見坊は当時東大国文科の大学院学生、25歳、金田一京助の紹介で三省堂に編集方針を説明したそうだ。詰襟だった。
「引きやすいこと」、見出し語のかなづかいを完全な表音式にした。
「わかりやすいこと」、文語文をやめた、動物や植物の説明も図鑑のまる写しみたいなのをやめて一般の用語で分かりやすく書きなおす、難しい漢字には仮名を添える、、など。
「現代的なこと」、語彙選定の標準として、現代の標準的口語を採録する、外来語を積極的に入れる、ただし“敵性語”とのそしりを免れるように注意しながら。
まだ海のものとも山のものともわからない一学生に、よくもこんなに任せてくれたものだなと、その点は今になって考えると感心します。武藤のインタビューに答えた見坊の回想である。
見坊は同潤会江戸川アパートに移り住み大学にも行かず、辞書の原稿を書いてほぼ一年で完成させる。
彼は高校時代「漱石全集」全19巻を読破、特徴のある表現をノートに書き取っていたという。
俺も高校時代、古文の勉強で「けり」「らむ」、、などの意味別の用例を教科書や試験問題に出てくるとノートに書き取っていたことがある。
今は古文も英文も読めない。見坊とは大きな違いだ。
大西巨人の小説では「辞書を引用する」という場面がよくある、と武藤はいう。
その引用の仕方は”ズバリ書名を挙げ、語釈も略さず写す凛然たる引用法”が特徴なのだ。「精神の氷点」という大西が28歳の時に書いた小説を81歳で加筆訂正した際に「治安維持法」を説明するのに広辞林[1934年新訂版]を引用する場面で「ちあんゐじはう」と書いている。
1943年新訂版の広辞林では現代かなづかいになって「ちあんいじほう」だった。
加筆訂正する前の小説では正しく引用されていたのをわざわざ間違って直してしまったのだ。
それを武藤は
我ら大西巨人党としては声もでない。と嘆く。
辞書をめぐるユーモアと味わいに富んだ本、博学にな、、るわけはない。
日本辞書史年表なる貴重な資料を作って添付してある。
ちくま学芸文庫
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旭のキューです。
at 2010-04-14 13:00
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パソコン入力前提で考え直すべきだ!は納得いきます。今は手書きする機会がなくなりましたから
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saheizi-inokori at 2010-04-14 14:23
旭のキューです。さん、パソコンの方ももっと入力し易くして欲しいですね。
Ciao saheiziさん
少し前から、ずいぶん前に読んだ井上ひさしさんの「父と暮らせば」をもう一度読もうと思ってたんです。
saheiziさんのこの文章をよんで、さっそく本棚の中を探してみた。
...ありました 笑
少し前から、ずいぶん前に読んだ井上ひさしさんの「父と暮らせば」をもう一度読もうと思ってたんです。
saheiziさんのこの文章をよんで、さっそく本棚の中を探してみた。
...ありました 笑
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saheizi-inokori at 2010-04-14 19:44
junko さん、私も今日は近所の本屋で「吉里吉里人」を探しました。前に読んだ時は厚い単行本でしたが誰かにあげてしまったのです。
今日は見つからなかったなあ。
今日は見つからなかったなあ。
少し前から書店の平台に井上ひさしの『ボローニア紀行』という文庫本が並んでいて、迷っていたところに死亡ニュースでした。
井上ひさしは巨大でしたね。巨大さを感じさせない巨人でした。
近世から現代の歴史についても司馬遼太郎以上の仕事をしたように思います。もっとも井上ひさしは司馬遼を巨大な先達として尊敬していましたが・・・。
井上ひさしは巨大でしたね。巨大さを感じさせない巨人でした。
近世から現代の歴史についても司馬遼太郎以上の仕事をしたように思います。もっとも井上ひさしは司馬遼を巨大な先達として尊敬していましたが・・・。
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高麗山
at 2010-04-14 23:24
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三鷹の鷹ついでに。
学生時代のレポートに、『おおよう・大様』とつかったら、教授に大様とはなんだ、『おうよう・鷹揚』という字を知らないのか、と詰問された。
本当は、鷹揚と表現したかったのだが、最初に辞書を引いたとき“おおよう・大様”と引いてしまったのだ。内容は似通っていても微妙なニュアンスの違いは、歴然としていた、未だに悔しい!
学生時代のレポートに、『おおよう・大様』とつかったら、教授に大様とはなんだ、『おうよう・鷹揚』という字を知らないのか、と詰問された。
本当は、鷹揚と表現したかったのだが、最初に辞書を引いたとき“おおよう・大様”と引いてしまったのだ。内容は似通っていても微妙なニュアンスの違いは、歴然としていた、未だに悔しい!
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saheizi-inokori at 2010-04-15 09:24
きとら さん、おっしゃる通り、巨大さを感じさせない巨人でした。
亡くなってみて改めてその影響を受けていたことを感じた次第です。司馬の作品より多くを読んでいました。
亡くなってみて改めてその影響を受けていたことを感じた次第です。司馬の作品より多くを読んでいました。
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saheizi-inokori at 2010-04-15 09:25
高麗山 さん、鷹はあちこちで恥をかかしていますね^^。
井上ひさし氏の自伝的小説「青葉繁れる」などで、極貧生活のとき、母親の勤めていた食堂のテーブルの上が寝台になったというのが印象的でした。
「コメの話」「どうしても米の話」もなかなか内容が濃く、日本の稲作を真剣に考えておられました。
「吉里吉里人」を買ったのに厚くてギブアップ、捨ててしまいました。日本語を大事にされた方だったのも印象深い作家として私の胸に残りました。残念な死です。
「コメの話」「どうしても米の話」もなかなか内容が濃く、日本の稲作を真剣に考えておられました。
「吉里吉里人」を買ったのに厚くてギブアップ、捨ててしまいました。日本語を大事にされた方だったのも印象深い作家として私の胸に残りました。残念な死です。
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k_hankichi at 2010-04-15 22:22
井上ひさしさん、僕が高校~大学生のころは、すぐ近所に住まわれていました。長期休みのときには、僕は郵便配達のアルバイトをしていたので、よく配達したものです。本は少ししか読んだことは、ありませんが、僕の郷愁とともにある、そういう人でした。お悔やみを申し上げます。
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saheizi-inokori at 2010-04-15 23:06
tona さん、貧窮の青春を送ったことも私には親しみが感じられました。
視点がいつも下積みの人からという感じがありましたね。
「吉里吉里人」、もったいないことをしましたね。
もっとも私も誰かにあげちゃったのですが。
視点がいつも下積みの人からという感じがありましたね。
「吉里吉里人」、もったいないことをしましたね。
もっとも私も誰かにあげちゃったのですが。
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saheizi-inokori at 2010-04-15 23:08
by saheizi-inokori
| 2010-04-14 11:56
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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