小林秀雄の作文の秘密 「人間の建設」(2)
2010年 03月 29日
読む人にとっては迷惑な話です。
小林秀雄も絵をみたり音楽を聴いたり小説を読んでいると書きたくなったことを書いている内に批評家と呼ばれるようになったのであって自分が批評家になろうとは思わなかったというようなことを書いている。
私みたいに文士になりますと、大変ひどいんです。ひどいということは、考えるというより言葉を探していると言った方がいいのです。ある言葉がヒョッと浮かぶでしょう。そうすると言葉には力がありまして、それがまた言葉を生むんです。私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。こうも語っている。
私はこの頃、仕事をしていて、これはどうなるかな、やっているうちにとんでもない失敗をするかもしれないなと、いつでも思うのですが、、、岡も
ええ、どうなるか全くわからない。と相槌を打ち、小林は
わかれば書きませんね。と言い、岡が
本当のことをしゃべったり聞くことはどうしてもそうなります。
そうでなければ、読む人は企みに踊らされているような気がするでしょう。という。
絶妙のかけ合いです。
小林の場合はその文章が読む人を動かし更に書く人(たとえば俺)を作るのだからいわば魔法の杖をもっているみたいだ。
なぜ小林の文章に力があるか?
文章を書く対象に作家や思想家があったというに過ぎないのです。私は人というものがわからないとつまらないのです。だれの文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でもおもしろくなります。石や紙という物をかいてもおもしろいのと同じように、人間というものはそこに実体が存在するのです。それがないのがあるでしょう。それは私にはつまらない。「実体を把握していること」、なるほどなあ。
そう言いつつ別の場所では
その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。と、”確信したことばかりを書いている”岡の文章を評価する。
俺などは確信できることは実に他愛のないことばかりで森羅万象ほとんどが確信できない。
そういう男であっても言葉に力はあるらしくヒョッと浮かんだ言葉を書きつけると、ほら、こんなに長々と書いてしまう。
始めは「今日は書くことが思い浮かばない」と書くつもりで小林の「小」の字も頭にんかったのに。
言葉が言葉を生む、ということで一番気をつけなくてはいけないのは喋っているときだ。
最初はしゃべるつもりはなかったことを言葉の自己増殖機能によってとんでもないことをしゃべってしまう。
ウソをつくつもりはなかったのに話が誇大になったり傷つけるつもりもない人を傷つける結果になることなんかしょっちゅう。
困ったものだ。
この付けたりも連鎖反応で浮かんだままを書いている。
沈黙が苦手で、つい喋り過ぎ、とんでもないことまでしゃべってしまうことがあり、困ります。
言葉って泉のようで、掘れば掘るほど、書けば書くほど、しゃべればしゃべるほど湧きでてくる気がします。
まあ、菅と亀と鳩は何か言わなきゃいけないから、しゃべってたら何か考えて仕事してるように見えるという大きな誤解から、ただ言葉を吐き出しているだけだと思いますが、
いのち命と言う人に言霊ってのもあるんだと言ってやりたい。
当然スピリチュアルな彼はその単語は知ってると思いますが、単語の正確な意味を全く魂で把握していないのが彼の大きな問題。
ウソをつくつもりはなかったのに話が誇大になったり・・・これをブログでは気をつけたいと思っている、読むときは「その人」が出ていないブログは飽きてしまう。きつく言えば、<嘘くさい!>気がする。
後でホントの自分はもっと素直なのにと言っても誰も信じちゃくれない^^。
連想ゲームって危険なゲームですね。
素直に自分が出せるようになればいいのですが。
野草の「ホトケノザ」(仏の座)でしょうか・・・?
小林秀雄を教えたときは、高校生に小林秀雄て難しすぎやん、と思ったそうで「あんた達ゃ、ここに書いとることが難しくてよーワカランかもしれん、あんた達やないでも普通はよーワカラン。でもとにかくこん人はえら〜い人なんよ。」っていいながら授業したんだって。