母音でも子音でもなく清音でも濁音でもない、不思議な「ん」は何者なのか。

上古の時代、日本人は漢字に振り仮名をつけるときに「撥音(ん)」にはその発音の違いによって「イ」または「ム」および「ニ」が使われていた。
それもあって上田秋成と本居宣長は上代の大和言葉には「ん」があったか否かについて激しい論争を行う。
なかったという宣長の方が負けらしい。
文献でもっとも古い「ン」の文字は1058年に書かれた法華経だと言われている。
文字の役割は、単に日本語の発音を表記するだけにとどまらない。
組み合わせることによって、言葉で森羅万象を描くことのできる種を内包している。
空海はサンスクリット語で密教を学び「吽字義」という書物を著わした。
「吽」なる言葉はサンスクリット語で、「HAUMa(Uは ̄がついている)」で、「ウン」あるいは「ン」と発音される言葉である。
そして、H=「原因」や「因縁」を意味する、「A」=すべての真理の源、「U( ̄がついている)」=「無常」や「苦」「無我」を示す、Ma=自己である「我」と仏法によって現れた「我」をいう。
「吽」という真言は、人間という有限の存在が、永遠の絶対界を貫く神や仏という至極の理念と修行の極意を明らかにする、いわば悟りの世界を一言で言い表したものである。最澄は天才空海とは違って秀才として密教の教えを庶民大衆に広める礎をつくった。
そして同時に「吽」は曼荼羅でいう「金剛界」、すなわち「阿」で象徴される「胎蔵界」から発した宇宙の繁栄が、再び種子となって凝縮する様を表したものでもある。
それには言葉だ。
「ん」が語彙を増やし、世界観を広げる役割をになった。

現代の日本語で「ん」は「んーん」と否定でもない肯定でもない保留を意味する。
カタカナで表されるシステムと「いろは=ひらがな」で表わされる情緒、それをつなぐものが「清」でも「濁」でもない「ん」。
日本語に「ん」がなくなったとしたら、我々はおそらく日本語のリズムを失い、日本語が持つ「情緒」と「システム」を繋ぐ糸を断ち切り、日本のしっとりとして深い文化を、根底から崩壊させることになるのではあるまいか。「ん」にそんなにすごい力があったとは!
相変わらずというか、ますますというべきか読解力がきわめてなくなっている。
それでも面白い。
今度は空海のことを読んでみよう。
二回も読んだ司馬遼の「空海の風景」、すっかり忘れている。
さっき読み始めたら初めて読むような気がした。
興味のありかが全く変わってきたのだ。

新潮新書

saheiziさんが紹介し、maruさんもその壮大な歴史に慄然する、「ん」。 ん?・・・なに、それは? と、いてもたってもいられなくなり、昨日、熊本からの帰途で購入。家に着くまでに読み終えていた。 「阿」から始まり、「吽」で終わる。 「阿」は、生じる瞬間。「吽」は、終わる瞬間。 仏教の世界なのですね。 それなのに、しゃべりと声では使うが、書き言葉にはつかわれない「ん」。 たとえば、『続狂言記』の「暇の袋」にある、「なふなふ腹立たしや腹立たしや」というものは、「んー、ん...... more
ぼくは「ん」が好きです。メールでいただく、「ん」や「ん?」という響きには、なにやら、深い色気さえ感じます。この本、是非、読んでみたいと思います。
サンちゃんが「うん、お父ちゃん。」ですね!


今日はかなり歩きましたよ。
気がつかないまんまの人も多いようです。
アフリカ人の名前は「ん」で始まる事があります。
発音上どうしても「ん」と聞こえる名前で、日本在住で通帳を作る際など、コンピューター処理できずに名前だけ手書きになるって、、
アフリカ人の奥さんがおっしゃっていました。
言うのだ、でなくて言うんだ、清少納言はきらった訛り?私は好きなンです。落語でも頻出。
方言はンの頻度が高いですね。
んだんだ^^。