沖縄返還交渉の実相 若林敬「他策ナカリシヲ信ゼムト欲スー核密約の真実」
2010年 03月 01日
沖縄が還るまで戦後は終わらない“待ちの政治家”と呼ばれ、ぎりぎりになるまで本心を明かさない慎重居士・佐藤栄作総理大臣が1965年8月那覇空港でこう述べたことは沖縄のみならず本土においても大きな共感を呼び起こした。
それは外交当局にとっては青天の霹靂でもあった。
ベトナム戦争の泥沼に深入りしているアメリカが沖縄返還交渉に積極的になることは到底考えられなかったからだ。
もし交渉が始まったとしてもその態様、つまり基地のあり方ー核抜きか否か、自由使用か本土並みかーについては日米間、および両国の内部に大きな意見の対立があって簡単に歩み寄れるとは考えられない。
アメリカには、若者の血を流して戦い取った沖縄を自分では軍隊も持たずにアメリカに頼り切っている日本にこの非常時に返還することなど言語同断、基地使用に何らかの条件が付されることすらも許されないという考えから、いずれ日本に返還することは当然だとしてもその時日本は自らの安全保障・アジアの自由主義陣営としてどういう覚悟をもつのかが明らかにされなければならないし、それにしても今は時期が尚早だという考えまで、そのどちらにしても到底現実の議論として返還交渉が議題に上ることは期待薄だった。
佐藤は南べトナムを含む東南アジア各国を訪問する。
工業力世界三位になった国としてアジアの問題に本格的に取り組み、ベトナム和平の道を探ろうとする。
外遊の成果を予定されている第二次日米首脳会談におけるジョンソン大統領説得の力にしようという考えもあった。
著者は1930年生まれ、東大法、ロンドン大大学院、ジョンズ・ホプキンス研究所などを経て京都産業大学教授として国際政治、とくに日本の外交・安全保障を研究していた。
ジョンソン大統領特別補佐官・ロストウ(俺が大学でまず学んだ経済発展段階説の提唱者である)などワシントンの枢要な人物と知己となる。
「核軍縮平和外交の提唱」という論文に書いた構想を佐藤に説いたことなどが縁になって著者は沖縄返還交渉の特使になる。
おりから来日中のトインビー博士夫妻のアテンドをしている最中に身内に不幸があったと嘘をついて極秘裏にアメリカに飛ぶ。
搭乗予定の飛行機に外務省の高官が乗ると聞き、向こうはフアーストクラス、こちらはエコノミーであってももし顔を合わせると困ると予定を変えてサンフランシスコ経由、寝る時間を削って乗り継ぎ便を探してワシントンへ。
佐藤は「両・三年以内に」返還の時期を明らかにする、という合意を取り付けようと思う。
ラスク国務長官はそういう若泉の言葉を大統領に取り次ぐことすらしない、それほど無理と思われた難題だ。
総理の意向を知らないせいか外務当局は弱腰、というより足を引っ張りそうなのんびりムード。
外務省、三木武夫外務大臣は頼りにならないから彼らにも佐藤は内心を明かさず若泉と打ち合わせる。
トップ会談の直前に総理の真意を指示されて慌てふためく三木外相と次官たちだった。
1967年11月14・15日、首脳二人だけの会談を挟む著者の裏でのロストウに対する声涙下る説得、総理自らの粘りと説得。
日本の要求に沿うことがアメリカにとってもプラスになるということを大局的に論証する。
情理を尽くした粘り強い説得と主張がジョンソンたちを動かしていく。
大国トップが知力と信念をぶつけ合ってのやり取りは迫力と緊迫感に富んで感動する。
俺は当時のアメリカのベトナム政策に対して反対であるが、それとは別に彼らの立場、考え方に立った上でこの交渉の実相を今知って感動する。
政治主導とは、総理大臣のリーダーシップとは、こういうことではないか。
学問をジャーナリズムに切り売りするのではなく自己の信念に忠実に平和のために尽力した著者も素晴らしい。
著者はその後のニクソン政権との“密約交渉”も佐藤とやり遂げる。
交渉をまとめた後、郷里に隠棲する。
一切の沈黙を守り通して国家の機密を墓場まで持っていくつもりだったのだろう。だが沖縄返還から日が経つにつれ、祖国の姿がしだいに愚者の楽園と映るようになっていく。日米同盟に安易に身を委ねて安逸をむさぼり、アメリカの核の傘に身を寄せて、自国の安全保障を真摯に考えることをやめてしまった経済大国への憤りを抑えがたかったのだろう(手嶋龍一)1994年に本書を公刊する。
そして国家の機密を公にした結果責任をとって、1996年英語版の序文を書きあげた後毒杯をあおって死ぬ。
「宣誓」が冒頭にあげられる。
永い遅疑逡巡の末、と書いて、ここに述べられていることが真実であることを宣誓している。
心重い筆を執り遅遅として綴った一篇の物語を、
いまここに公にせんとする。
歴史の一齣への私の証言をなさんがためである。
この決意を固めるに当たって、
供述に先立ち、
畏怖と自責の念に苛まれつつ私は、
自ら進んで天下の法廷の証人台に立ち、
勇を鼓し心を定めて宣誓しておきたい。
その前のページ、すなわち冒頭にあるのが
鎮魂献詞
一九四五年の春より初夏、
凄惨苛烈を窮めた日米沖縄攻防戦において、
それぞれの大義を信じて散華した
沖縄県民多数を含む彼我二十数万柱の全ての御霊に対し、
謹んでご冥福を祈念し、
この拙著を捧げる
文藝春秋
なお書名の「他策ナキヲ、、」は日清戦争当時の外務大臣・陸奥宗光の回想録「蹇蹇碌(けんけんろく)」にある言葉。
(表紙写真は戦没者慰霊碑前にぬかづく若泉敬@沖縄)昨年ある偶然から、若泉敬著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の存在を知り図書館で借りて拾い読みした。原著は1994年5月文藝春秋社から刊行、昨年、軽装版が同社から再刊された(先週、これを購入、1800円+税)。600頁を超える大冊である。 『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』〈新装版〉出版社案内 http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_de...... more
重い思い、是非読んでみたい。
新装版が出たのですね。
さらに最近、若泉敬の評伝も出たようですね(後藤乾一『「沖縄核密約」を背負って 若泉敬の生涯』岩波書店)。
東京新聞に書評が載っていました。
ノンフィクション作家の吉田司が好意的に紹介しながら、最後に「ただし一点、補足したい」と、次のように書いているのに共感しました。
若泉は沖縄返還を「戦争の結果として失った領土を一兵たりとも動かさず、平和裏の交渉で回復」したと書いた。本当にそうか!? アメリカは当時、ベトナム戦争の敗北(撤退)→アジアへの影響力低下を防ぐため、日米再協力を必要としたのだ。返還の裏には多くの米兵とアジア人民の死があったことを忘れてはならない。(『東京新聞』2010/20/28朝刊)
吉田司の言うことは分かりますが、そういう“チャンス”を最大限に生かして体当たりで交渉した若泉=佐藤は今の政治家、まして外務官僚の遠く及ぶところではないと思いました。
私は佐藤栄作なんて反動の嫌な政治家でノーベル平和賞の本質が問われると思っていました。
今でもすべてをよしとする気はありませんが、あの時代に現実論としては、こと沖縄返還に限って言えばよくやったと思うのですが、、。
読んでもないのに、胸に詰まるものがこみ上げてきました。
確かに、愚者の楽園と化していますもんね。
私もその愚かなひとりですが、こういう事実を教えていただけると、背筋が伸びる思いです。
私も佐藤栄作元首相、知りもしないのにあまりいい印象なかったのですが、、政治家というのはこういう人のことを言うのですね。
若泉敬教授がゆっくりご冥福できる世の中いつ来るのでしょうね。
今の沖縄基地問題を考えるための基礎資料だと思います。