映画「道」、小説「悪人」(吉田修一)、束芋
2010年 02月 22日
高橋選手のおかげで毎日聞こえてくる。
懐かしい「ジェルソミーナ」、観たことはあったけれど内容は忘れていた。
先日観た「束芋展」でこの小説をモチーフにした作品が展示されていた。
朝日新聞に連載されたときの挿絵だったらしい。
博多の生命保険会社の外交をしている女が殺される。
犯人は長崎に住む土木作業員、ふたりは出会い系サイトで知り合った。
犯人は祖父母の養子として育てられた。
母は男から男へと、、幼い息子をフエリー乗り場に置き去りにした。
向こうに灯台のみえるとやろ?あの灯台ば見ときなさい。そしたらすぐお母さん、切符買うて戻ってくるけん子ども(犯人)は桟橋の柱の陰に隠れて朝まで待っていた。
これだけ書けば後はメデイアの報道が想像できる。
遺体発見現場でヒステリックにわめくテレビアナウンサー、もっともらしい顔をして母親の罪、出会い系サイト、殺された娘の両親(真面目な床屋夫妻)の育児のあり方(娘は出会い系であった男たちから金を取っていた)などについて解説するコメンテイター、、。
当然のことというべきだろうが小説は犯人と被害者の事件前後の行動、そこに隠された心情を描き通り一遍の”馬鹿な男の犯罪”像を修正していく。
彼らを取り巻く人々の生活を描いて今の社会を浮かび上がらせる。
”悪人”は誰なのか。
加害者が被害者であり被害者が加害者でもある。
現代の奇跡のような人物像が浮かび上がる。
ところどころに束芋的世界のイメージがある。
逆かな、小説が束芋を触発したのだ。
でも挿絵を見ている内に作家のイメージも変容していったかもしれない。
なんで「道 ジェルソミーナ」か?
淀川さんの解説を聴いているうちにこの小説に出てくる人物が浮かんできたのだ。
可哀そうな無知なる愚かなる人々。
助け合い傷つけあい。
孤独な魂の真実。
この小説では救いらしきものがある。
たとえ自己満足・自己瞞着に基づく頼りない救いだとしても。
「道」に救いはあったろうか。
深い絶望と悔恨。
現代はそれすら不可能な時代なのかもしれない。
さら、にまったくの偶然ですが、なんと先週「レンタルショップで「道」を借りてきて手元にあります。単なる気まぐれですが。
このテーマ、今私の周辺で旬です。
先日、あるお母さんが亡くなりました。
妻、母をきちんとこなしながらご両親の介護を一生懸命やっていた人です。
その旦那さんは、そんな彼女をあまり理解していなかったようです。
その彼女がある日突然亡くなった時、ご主人の慟哭は激しかったようです。
うちの母が亡くなった時もそうだったようです。
(私はお葬式に出ていないので、)
女である私からすると,どうして男性はこういった普通の様だが、とても大事なことをきちんと認める謙虚さと賢さがないのかと不思議に思います。
まあ、逆の場合もあるのでしょうが、、
男と女の間には暗くて深い河がある。と誰かが歌った記憶がありますが、本当にそうなんでしょうね。
そのうち、そこにその河の流れにその深さに光を投げかける街灯や橋はかかるのでしょうか?
ジュリエッタ.マシーナ、フェッリーニの奥さんですね。
しかし、アンソニークイーンって年取ってからのが全然魅力的なのねえ、そういう人っていますよね。
淀川長春さん、彼の解説聞いただけで、もう映画全部を見終わった気になる。
素晴らしい人ですよねえ!!
記事読了しました。どうも課題は「救い」にあるように思います。
今日お会いする前に岩波文庫の新刊、シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』を購入しました。
おそらくシモーヌ的思考以外に今の時代の閉塞を開く「道」はないかと、最近思います。
「悪人」の場合は逆ですが。
ありがとう。
とても楽しい一席でしたよ。
絶望!
それを人間の哀れさと捉えれば仕方ないなあって思えるかもしれないけど、、
ちょっと筋道たてて考えればいいことを、わがままを通すからおかしな事になっているのに、それを許す相手をまたそのアフォが探し当てるもんだから、事態はねじれて深刻に、、って日常的にもよくある事だなあって思いました。
人間、根がまじめってのが一番ですかねえ、、まじめじゃないと向上しないし反省も後悔もできないですもんね。
それじゃあ高橋君は浮かばれない旅芸人だわ~
「マルセリーノの歌」とか「汚れなき悪戯」とか、、懐かしい映画音楽がいっぱいです。
その遠藤さんが,あまりにも「道」を推すものだから,
観たことがあります。
淀川さんの解釈とはちょっと違って,
彼は,ジェルソミーナに神性を見出していたようです。
…まぁ,「棄てた・女」に近いものがあるかなぁとは思ったけど,実感としてコツンとは来なかったな(^^;)
でも。あの曲を聴くと,切なくなるね~。
ビデオやさんに行ってみるかな。