玉置さん、chaotzuさん、忘れませんよ 梟物語(30)
2010年 02月 21日
梟さんは上野の山で土偶さんに会いました。
なんだか初めてあったような気がしない、おかあさんのおかあさんのおかあさんのおかあさんのずううっとまえのおかあさん、たちのようでした。
みみずく土偶さんもいたよ。
こころがあたたかくなってきてじいっとみていたら
おやまあ、梟さんたち、こんなところにいたの!
どこから聞こえるかっていうと
こころの中に響いてくるような声がしましたよ。
でも 分かったんだ、声のぬしはこの人だって。
”縄文のビーナス”さん。
三人の国宝土偶さんのひとりがぼくたちににっこり笑っている。
ビーナスさん!
うちにおいでよ。
久しぶりにうちに帰ってみるとホンヨミフクアニ、メガネズク、、それにガラスイヌにはボクタチも初めて、、おや、このフグマガイキン君にもお初だね。
どうやら今夜はビーナスさんを囲んでうちじゅうで歓迎会だ。
雛人形展・国立博物館)
5年前に始めたこのブログ、最初の頃しょっちゅう書いてたのがこの「梟の物語」。
その頃、いつも素晴らしい記事を書いていらした「マイ・ラスト・ソング」の chaotzu さん(クリックして読んでください。泣けてきます)が、「俺にはこんな記事は書けない」と半分冷やかしてくれた。
その chaotzu さんが、亡くなって暫くしたら、俺もこんな記事を書けなくなって(29)でストップしていた。
chaotzu さんが亡くなり、sakuasakoさんや henry66さんなど(お元気ですよね!)毎日挨拶をするのが楽しみだった人がブログをやめてしまった。
ブログではないが玉置宏が亡くなったのがじわじわと効いてきている。
彼が”席亭”をしているNHKのラジオ名人寄席だ。
故人となった名人を選んでは短い気のきいた紹介をして聴かせてくれる、そのテープを500巻も持っているだろうか、まいばんトッカエヒッカエ聴いている。
小さんが亡くなるとすぐに特集を組んでくれた。
先代三木助の最後の高座「三井の大黒」は噺も凄い出来だが玉置の語りも気のせいか涙ぐんでいるように聞こえる。
今、玉置の語りを聞くたびに、彼がいないことを確認させられる。
じわじわ、だ。
このボードワン博士が危うく大学病院用地になるところだった上野の森を公園にするように政府に働きかけてくれたのだそうだ。
こちらは4月までやっているからカラバッジョだけでも観ようと思って入ったけれど結局全部観た。
階段を上るのが辛い美術館だ。
辛いけれど上がるだけの価値はあった。
最近,梟さんたちどうしてるかなぁと思っていたところだったのよ(*^_^*)
私は家にいることのほうが多いんだけど,最近は,外に出ると梟さんを探してます。探すと意外と見つからないものだわね~(って,行動範囲が狭すぎ ^^)
chaotzuさんのブログ行ってみました。
心にしみる文章の数々、ひとしきり読んだ後「お気に入り」に入れました。
思いついた時、ポツリポツリと読んでみようと思って、、
その人がいなくなった後も、彼の思いが残り、誰かしらとなくその思いをたどる。
文章って素晴らしいですよね
しかし、彼が書いた2006年と状況は全く変わってないんですよねえ、、驚いたわ。
玉置宏さん
私にも思い出深い
確か日曜日、父とまったりテレビを見る、その時間が私はすごく好きだったんだけど、その時の歌番組の司会だった気がする。
舞台に上がって、これから歌う人の背後に、さらにキラキラ光る光をつけて送り出す。
彼の番組の進行の仕方、すごかったなあと今になって感心します。
最近はみんなが何にでも手を出す。
それって、ちょっと考えもんだなあ、と思っています。
気の毒な玉置さんだと思いましたよ。
コメントは全部削除されていますが。
ほんとに政治のありようなども何にも変わってないですね。
コメントもブログの大事な一部だから残して欲しいですよね。
居なくなった後でも、こうやってその想いは、人から人へと伝えていけるのですね。
私は藤田誠さん、加藤和彦さんが特にショックでした。
ダンダン、さびしくなりますね。
ブログは止められると、もう、私達の如何されているか分からないですね。元気でおられるならそれでいい事なんですが、、、私は無理せず少しずつ身の丈にあった文章を書いて、少し訪問して、、、少しづつ勉強させていただきます。
よく考えたらウチのみゅうちゃんは大するときにいきんで、目がまるで土偶みたいにふくらむのでございますよ!
ほんと〜にあのメガネかけたような目のでかい土偶の顔になります。
それに一番下の妹ははにわ好きで、はにわの形をしたマグカップを陶芸教室で作って悦にいってました。
どんだけ変な家系なんだ、、、
ブログはお互いによろしくお願いします^^。
昨年1月、私の同志というべき友達が亡くなりました。
彼は「ココログ」でHPを持っていたのですが、亡くなってすぐに閉鎖されてしまいました。
「さよなら」も云わず、あまりにも突然、あっけなく51歳でこの世から消えてしまった彼は、脳性まひのため会話はほとんど聞き取れなませんでしたが、インターネットで日本はおろか世界中と繋がり、障がい者の生の声を発信し続けていました。
二次障害で、毎晩モルヒネを使うほどの痛みと戦いながら、きっともう長くはない自分に残された時間を自覚していただろうのに、そんなことおくびにも出さずいつも笑顔で励ましてくれました。
マヒで動かない手で、気の遠くなるほどの時間をかけて一文字一文字打った彼のメッセージは、今も私のPCから消すことはできません。
嬉しいことがある度、悲しいことがある度、彼が聞いたらどんなに云ってくれただろう・・・。
と、彼が亡くなった後ますます彼の存在の大きさがじわじわと効いてきて寂しく思います。
でも、挫けていたらあの世で彼に合わせる顔がない!と、泣きながら頑張る勇気をいまだに彼からもらっています。
あったことはあるのですか?
障がいがなければ宇宙飛行になりたかったという彼は、頭が良くて教えられることばかりでした。
私が音楽療法学会に論文を書いたり、学会発表をする時も「脳性マヒの実態を世間に知らせて欲しい!ノーベル賞取ってよ!」と、当事者にしか分からない苦痛や身体の不都合などの生の声を聞かせてくれ、全面的に協力してくれました。
Cさんは同じ地獄を見てきた同志だと云ってくれました。
私が車椅子になって同じ施設に入ったあかつきには、一緒に障がい者のために活動する約束をしていたのに・・・、置いてけぼりは酷いです・・・。
貴方もそうかもしれませんが。