被差別部落の現状は? 上原善広 「日本の路地を旅する」
2010年 02月 13日
1978年生まれの上原は幸いにも差別されることもなく故郷として更池は“とても居心地の良い場所”だった。
全国で6000以上あるといわれる路地の内500以上の路地を13年かけて回った上原が16都府県の路地を選んで現況、そこに住む人との交流(できなかったこともある)、その路地の出来た由来、役割などをリポートする。
既に痕跡もなくなっているところもあるが皮職人、太鼓三味線製造などの生業を護って生きているところも多い。
そこに住む人たちの意識も土地によって差はあるが徐々に差別・被差別意識は消えつつあるようだ。
悲惨な時代の記憶が消えない年寄りがいなくなれば事態はずいぶん変わるのかもしれない。
佐渡の路地で上原はある路地問題に詳しい人の発言を思い出す。
この現代に被差別があるかといわれれば、もうないといえるだろう。それは土地ではなく、人の心の中に生きているからだ。しかし、一旦、事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別部落は復活する。被差別部落というものは、人の心の中にくすぶっている爆弾のようなものだ淡々と路地を回って人々の話を聴いているように見える上原だってこの旅では必ずといっても良いほど呑みすぎてしまう。
こんな、傷口に塩をなすりつけてまわるような旅などしなければいいのにと、自分でも思わないこともないが、不器用な私はいつまでも、このような人の心のひだを覗き込むような旅しかできないでいた。いくら同じように自分の身を切ったとしても、路地の人にとって、それは所詮、他人の血であった。そう思うと、ますます呑まずにはいられないのだった。本書に書き留められている会話自体はむしろカラッとして想像するような悲惨な思い出や恨みつらみは少ないのである。
上原の抑制を感じる。
淡々とした筆遣いであっても書いてある差別をめぐる歴史、事件・エピソードの数々には蒙を啓かれた。
非人系とエタ系、情報収集、警備、処刑(聖なるものと汚れたものの皮一枚をつなぐ仕事)、動物の屠殺・死体処理(皮細工、食肉製造など)、獅子舞・万歳などの奉納・演芸、、それなしには都市機能が維持できないような重要な仕事をする人たち、大名は移封されるたびに彼らを連れて行って一か所に住まわせたこと。
遠く離れた路地と路地に人と情報のつながりがあったこと。
仲の良かった兄がぐれて犯罪を犯し借金から逃げるために琉球の島に渡っているのを訪ねて行く前後の著者の感慨に胸を打たれた。
私は思った。間違いなく兄は、どこかで曲がり角を違えただけの私なのだ、と。だから兄にはどうしても、西南の果てへなど逃げてきて欲しくなかったのだ。上原がほかの個所で
生まれた環境は選べないのだから、それを嘆くよりも、これからどう生きていくのかが最も重要なことになるのではないであろうか。(略)どのような地域や社会的階層の生まれであっても、その人の可能性を信じるしかないのではないか。とも述べている。
俺のように恵まれて生まれた者は彼らの可能性が少しでも伸び伸びと発揮できるような社会にしていくことを心がけるしかない。
ことは被差別部落のことばかりではないだろう。
亡き妻が言ってた「差別のない社会に!」だ。
明日帰ります。
今回はsaheiziさんとnaouさんにお目にかかれて嬉しかったです。
さすがはsaheiziさんの奥さま
全くその通りですよね。
人種の違いから、国籍の違いから、ジェネレーションの違いから、階級の違いから、価値観の違いから、、そういった違いから生まれる壁はもうさっさと取り除かなくてはいけない時代になったと思います。
それじゃあ、またねsaheiziさん
人の世ですから、わかっていてもそぉは行かない物ではないでしょうか、;;
ひょっとしたことから会えて嬉しかったです。
私はローマに行くことはもうないと思いますが貴方が住んでいると思うとなんだか身近に感じる。
また日本に来た時は今度は寄席にでも行きませんか。
お元気で!
ほっとくとどんどん悪くなる。
関東は比較的少ないのかもしれませんが。
「東京には被差別部落は存在しない」「差別はない」という方がいらっしゃいますが、とんでもない。厳然と存在します。そして「被差別側」であることを武器に金儲けをしている人はまだまだいます。その人たちと闘うのが私の任務だったのです。
何でも金もうけの種にする人って出てくるもんですね。
魂の救い、病気、障害、貧困、、正義はいうまでもなく。
①血のつながり…たとえ2分の1であろうと,4分の1であろうと
②不可触性…近寄ってはいけない
③穢れ…この反対が「貴」
この意識の対が「貴種」,その極致が「天皇制」ではないかと。
>事件など非日常的なことが起こると、途端に被差別部落は復活する
「死の穢れ」,「血の穢れ」の俗信が続く時,差別意識もまた続くように思われます。ですから,これもまた俗信ですが,1966年の「ひのえうま」年の出生率が60年前よりも高かったことにショックを覚えました。
現天皇と常陸宮は呆気にとられて一言も発しなかった由。
九州の被差別部落に十数年前から本籍も移して、地域の住民とともに部落差別問題と(まさに)戦ってきました。
そんな彼女に、地域の人はなかなか心を開かず、長い間「逆差別」を受けて冷やかな目で見られてきましたが、30年間その尽きることのない彼女の情熱に、72歳になる現在は同朋として受け入れられ、地域の老人部長、また識字学級の講師を務め、被差別部落の住民と同じ土俵でいることを誇りにして熱く生きています。
私の母であるこの情熱の塊のような彼女のイデオロギーを受け入れ、現在のように誇りに思えるようになるまで、私たち親子の間にも数々の葛藤がありました。
尊敬します。