日本語こそ辺境人の武器=資産だ 内田樹「日本辺境論」(2)
2010年 02月 11日
それが梅棹忠夫が半世紀も前に「文明の生態史観」で明らかにしたことである。
内田は今なおその状況は変わっていないという。
ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところは、なんとなくおとっているという意識に取りつかれてきた。
日本語。
表意文字(漢字)と表音文字(かな)を併用する。
日本語はもともと無文字=音声でしかなかった。
そこに入ってきた外来文字が「真名」、すなわち正当の座を占めて、もともとあった音声言語が「仮名」、すなわち暫定の座におかれた。
外来のものが正当の座を占め、土着のものが隷属的な地位に退く。そして「外来の高尚な理論=男性語」と「地域のベタな生活言語=女性語」の二項対立が反復され、その相克のダイナミズムの内に、日本語が豊饒化する契機も存在する。
それは同時に男性語と女性語というしかたでジェンダー化されている。
これが日本語の辺境語的構造です。
要するにそれは日本人の宿命のようなものだ。
だから
さしあたり私たちにできるのは「なるほど、そういうものなのか」と静かに事態を受け止めて、私たちの国の独特な文化の構造と機能について、できる限り価値中立的で冷静な観察を行うことではないか
「真名」と「仮名」が絡み合い、渾然一体となったハイブリッド言語という、もうそこを歩むのは日本語しかいない「進化の袋小路」をこのまま歩み続けるしかない。孤独な営為ではありますけれども、それが「余人を以っては代え難い」仕事であるなら、日本人はそれをおのれの召命として粛然とひきうけるべきではないかそれが内田の結論である。
不安になったりきょろきょろしなくてもいいということ?
いや、やはりそれは宿命または生理みたいなものだから逃げられないということだろう。
俺の上がり症みたいなものか。
お利巧なんだから・・・
外国にあるかどうかはつまびらかにしませんが日本人らしい発明ですね。
内田は養老さんに聞いたと書いてますが、漢字=表意文字と表音文字は認識する脳の部位が違うそうです。
マンガ文化が日本に著しく発達したのはそのことと関係があるかもしれないと書いていました。
内田の本はそんなに難しいことはいってないのですよ。
ささやかな読書ノートをつけていますが、最後はsaheiziさんとおんなじ、『余人をもっては、、、』の前後を抜書きしました。(^^)
内田は照れ屋さんではないかと思います。
並々ならぬ決意表明をしているような気がしました。