命の連鎖を想う
2010年 02月 09日
祖母の歌。
来年は曾孫が生まれるかも知れむ思へば生きて居たいとも思ふ祖母は間にあったけれど母は曾孫を見ることが出来なかった。
妻は子どもの結婚を見ることが出来なかった。
三人とも行い正しく一生懸命に子育てをした一生だった。
ままならないなあ。
夜もすがら電気毛布のぬくとさに母と添い寝の夢を見しかなどんなに年を取っても母親に甘える夢を見る。
そういう夢を見ているときの俺はどんな顔をしているのだろう。
山なみをくぎりて碧きこの朝の晴れたる空を美しと見る今俺が住んでいるところでは山なみが見えない。
子どもの頃はあって当たり前だった北信濃の雪をかぶった山々のスカイライン、無性に見たくなる。
かつて長野県は教育県と言われた。
その訳は貧乏人が山のあなたの空遠く幸い住むと思ってあの山を越えて行こうと思うからだ。
そのためには勉強をしなくてはと思うからだ。
と、誰かに聞いたことがある。
ドイツ語のSEHNSUCHT(あこがれ)ってそういうことだと。
ドイツも山々に囲まれているらしい。
母の句。
降りながら雪となりゆく夕景色富山で育ち長野で俺たちを育てた母、東京で見る雪の夕景色に何を感じたのだろう。
苦労の連続の末に俺と暮らした東京で。
このときの母の心が温かくあったことを今さら願う。
手遅れもいいところ!
瓦斯の火に二月ゆつくり逃げてゆく逃げる二月を少しでも賞味しようではないか。
はあちゃんが眠って居る時のようにスイートなお顔です。
寝顔って飾れないから素の姿が現れますね。
父親は損な役割?
1枚目の写真、お母様もご覧になった山ですか。どこの山でしょうか。春未だ早い美しい山姿ですね。
甲斐駒かなあ。何べんも観ているのに自信がないです。
今日、博多から6時間かけて母が来ました。
遺書に居られる時を愛しむ様に、べったりとくっついて過ごします。
編みかけの私のセーターを持ってきて、時々私の体に当ててみながら、炬燵に並んで座ってせっせと編んでいます。
母の得意の里芋と干し椎茸、こんにゃくの煮しめの炊けるいい匂いが台所から漂っています。
「明日はあれが食べたい」と、わがままを言いながら、おだやかな時間が過ぎていきます。
会う度に小さくなっていく母を見ていると、これが最後かもしれない・・・と、小さく覚悟をします。
私はそうせずに何でも自分でやれると頑張ってしまった。母は甘えて欲しかったのだと思います。