懐かしい60年代 形を視るデザイナー「田中一光ポスター展」
2010年 01月 31日
早川良雄の「カロン洋裁」「秀彩会」のポスターを駅で盗んだほど心酔していたという田中一光の展覧会、久しぶりの銀座へ。

大小、配置、色、、。
多くの作品に既視感がある。
そのものをみていなくても様々な作品の源流であり見本であったということか。
62年の民藝「火山灰地」、握りこぶしと太い腕、俺も観た芝居だ。
滝沢修、清水将夫、宇野重吉、、彼らが俺の前で芝居をしてくれたんだ。
60年代の面白さについて田中は
馬車馬のように走るもろもろの日本の近代化に反旗を翻す運動が広がったと書いている。
67年の神戸労音のポスター、緑の地の左上に3人の男?が白く抜かれてピンクの影が長く伸びる。
ハッとする。
73年の「三文オペラ」など西武グループのアート・ディレクターとしての仕事をみていくと、このころセゾンには文化発信の力があったと思う。
岩波、朝日、サントリー、ソニー、暮らしの手帖、、「旅路」(67年)の国鉄一家にだってそういう気配はあったように思う。
”馬車馬のように走る日本”の宣伝部長役を果たしていた。
経済、社会に文化の装いが必須だと信じていたのかもしれない。
さて田中の面白がった60年代の精神、セゾンのような企業による文化創造力ってのが結局幻だったのか。
今、わくわくする企業・宣伝があるだろうか。
トヨタ、キャノン、、心配でドキドキする。
宣伝は思いつき、ダジャレ、エコと称する情緒の安売り、スターへの依存。
アヒルと猫に任せられるか。

夜テレビで熊谷守一のことをやっていたので終わりまで観てしまった。
自宅の庭でひたすら視る、視る、視る。
雨を視る、蟻を視る、木の葉を視る。
そのありかたは熊田千佳慕に通じる。

しかしハイスピードで写真(左)を撮ると熊谷が実相を捉えていたことがよくわかる。
早川や田中、優れたデザイナーもきっとひたすら視ていたのだろうと思った。
現像と解析が行われていたんじゃないでしょうか。
田中一光さんは僕なんかからは、カリスマのごとくで
した。
熊谷さんを観ました。好好爺。
友人の父親(画家)の仲間だったそうで、とても優しい方だったそうです。本当に見方が違っていたのですね。次回はそのことを知って鑑賞したいですね。
田中一光氏のポスター、この1枚を見ても凄いです。
いろいろなつながりを展開していただいて佐平次さんの奥の深さに感嘆しています。
この間の若い演劇人たちもつながっている!
機械がなかった頃の人間は本当に凄いです。

今週はもう一度早川さんを若い美術家を引率していきます^^。
タダになるし^^。
fukuyoka さんの、“いい時代”の思い出を書きませんか、マジに。とてもいい本が出来ると思います。
ご主人も喜ばれると信じます。
白猫が寝そべってたり、アリが列をつくっていたり。。

初めて観たのは、もう20年も前の絵を描きだして間のない頃でした。
幼くして亡くなった息子の亡骸を荒々しいタッチで描いたもので、観る人の心を揺さぶる作品です。
幼子を抱え生活が貧窮し、妻に絵を描いてくれるように懇願されても頑として絵筆を持とうとしなかった熊谷が、ろくに医者にかけられなくて急逝したわずか3歳にも満たない息子の亡骸を、急き立てられるように夢中で描いたのだと云われています。
描かずにはいられなかったのだと・・・。
ちょうど、子供たちが同じくらいの年頃だった私は、彼の心中いかばかりかと察すると、この絵の前で動けなくなったことを覚えています。
画家の使命のような衝動に突き動かされて描いたのでしょうか?
大原美術館には、ほかにも若くして亡くなった関根正三や、古賀春江など、私をその絵のから動けなくしてしまう作品がいくつもあります。
ときどき、創作に行き詰ったとき、車を飛ばして逢いに行きます。

ただ、好きか嫌いかだけ・・・。
自分の好きな絵や仏像達に時々逢いに行く時は、まるで恋しい人に逢いに行くみたいに胸躍らせてわくわくしてしまいます。
やっと念願叶って逢えたあかつきには、彼等の前でうっとりと立ち尽くしていつまでも見入っています。
傍から見てる人は、きっと気持ち悪いでしょうね。
むしろ羨ましいですよ。