鳥瞰する一睡の夢 能楽現在形 劇場版@世田谷「能 邯鄲」
2010年 01月 16日
嬉しい嬉しい。

世田谷パブリックシアター、今日は自分で買ったチケットだから三階席、「砂の女」の穴の上からのぞくような感じ。
なぜか時々突然くしゃみが爆発的に連発するので予防的に薬を飲みマスクをかけていたら眠たくなって前半の半能「高砂」(関根祥人ほか)は素晴らしいお囃子と力強い謡を聴きながら4分の一うつらうつら。
これもいい気分。
舞台装置が能とは違う。
柱が目印のような杭を残してなくなって、橋掛かりは左右と真中に三本、四角い舞台の両脇に一段下げたスペースをつくってお囃子と地謡が並ぶ。
後方には大きなスクリーンを下げてある。
正中(に当たる位置)と大小前の間に正方形の床が置いてあって枕もある。
床の上になるのかな、天井から中国料理屋にあるようなランタンがぶら下がっている。
上手から瓜実顔の美人が楚々と現れたと思ったら萬斎、アイ・宿の主人だ。
邯鄲の枕の効能(一睡たちまち悟りを得る)を述べてお囃子(笛・杉信太郎、小鼓・成田達志、大鼓・亀井広忠、太鼓・観世元泊)そして地謡(観世銕之丞、関根祥人など)穴の底から音が上がってくる。
シテ・盧生・片山清司は下手から出てくるのだが上からみていると如何にも暗い別の世界から来たような感じが強まる。
シテが舞台左で脇座の方向に向いて斜め、床几に座り、脇座を後ろに正座したアイと対面する。
能舞台との違いを逆手にとって舞台を広く使っている。
線と丸の登場人物の動きが交差して実に面白い。
鳥瞰する能、だ。
一村雨の雨宿り~シテが床に休むと場内照明を落とす。
客席にライトが当たっている内にフエイドアウト。
赤いランタンもス~っと上がって消える。
仮寝の枕に伏しにけり~ワキ・勅使・宝生欣哉がタンタン、扇子で床を叩くと再びパッと明るくなり下手舞台入口にいる二人の供の者も浮かび上がる。
帝の位が転げこんできたと聞かされ
天にも上がる心地して、「玉の御輿に法(のり)の道」で、天上がりしたシテは中央の橋掛かりを歩いて後方に、スクリーンに宮人たちのシルエットが浮かび上がる。
床がせりあがって前面から三段のきざはしがつき出てくる、玉座だ。
ランタンが下がって、いろんな飾りが降りてきて、奥のライトがまぶしく光を増すとその後光の中を帝になった盧生が悠々と進んでくる。
時間の経過、夢と現実、シテの心の動き、能舞台では観客の想像力に任される。
それを平面的広がりや光の操作、小道具、舞台装置などで補う試みだろう。
前にここで同じ試みを「舎利」で観た。
あのときはヤッパリ能舞台の方がいいかも、と思ったような気がする。
今日はこういうのもいいかも、と面白く思った。

そう思ったのにはいくつか原因が思い当たるけれど、その一つは一階席で観た前回と違って三階から見下ろしているということもあるのではないか。
人々の動き、音、光、、一目で見下ろすことが演出者(萬斎)の意図をより効果的に伝えたのではないだろうか。
まあ、逆にいえば能楽堂で観る能をこんな穴の天辺から観るなんて考えられないけれど。

最後に盧生が夢から覚めて人生も、その栄華も、ただ粟飯の“一炊の間、一睡の夢”と悟る場面では、なんと俺は“神の視座”にいるかと思ったぜ。
今回もアイが「また来てね」と盧生の後ろ姿に声をかける演出だったけれど、これもこの舞台装置にはぴったりだった。
ほれみろ、隠居になって節約するときっといいことがあるんだ。
私はまだ、authenticなものを観た経験が足りませんが、こちらから入る人がいてもよいかもしれませんね。
伝統とはそういう血のにじむような試行錯誤によって守られ伝えられていくのでしょうね。


江戸時代創建現存する中では最古の木造小屋で、ギシギシと音を立てて動かされる廻り舞台やセリは、何とも言えない風情があり、タイムスリップした気分にたっぷりと浸れます。
今年も、4月10日あたりから2週間ほど金毘羅歌舞伎が開催されるので、是非一度おでかけください。
きっと、お気に召すこと間違いなしだと思います。
