神になりそこなった志ん生 井上ひさし 「円生と志ん生」（集英社）

第２次世界大戦の末期、５代目古今亭志ん生と６代目三遊亭円生は満州・大連にいる。陸軍軍属、少佐並みの待遇で、現地の兵隊さん慰問。”白いゴハン、うまい酒、親切なご婦人がた”に加えてアゴアシつきで給金も”日本銀行発行の１０円絵葉書がなんと毎月１０枚も”てえオイシイ話にイチモニモなく乗ってやってきたのはいいが、”行きはよいよい帰りは怖い”、巡業が終わっても日本海がアメリカに押さえられてしまっちゃあ、オイソレとは帰れない。そうこうするうちに哀れ神国・日本は負けてしまう。

それからの６００日ほど二人が日本に帰れるまでの悪戦苦闘ぶりを面白おかしく描いた戯曲。二人が満州に行ったのは事実だが、この戯曲に出てくるような事があったかどうかは・・。

志ん生と円生、どちらも稀代の名人だがキャラクターが違えば芸風もまるで違う。万事いい加減出たとこ勝負の志ん生、円生に迷惑をかけっぱなしだが憎めないキャラだ。几帳面で女にもてる円生、芸にイマイチ面白みが出ないと悩む。正反対の性格・芸風であっても落語を愛し、生きるのに精一杯の境遇でも頭を離れないのが芸の工夫というところは全く同じ二人だ。

禁演落語といって戦時中、郭ばなしなど戦時色にふさわしくないと思われる演題を”はなし塚”なるものに葬ってしまったのだ。自主規制だ。その代表としてこの戯曲の中で志ん生があげるのが「居残り佐平次」だ。そう、俺様の名前は言うまでもなくこの噺からきている。戯曲の中で唄われる『佐平次と熊五郎と太鼓持ち一八のマーチ』の一番。

おあしなしで遊び
布団部屋にのこり
朝も昼も夜も
客のためにつくす
居残りの佐平次は
見上げた男
こんな噺　殺すやつは
みんな大馬鹿者

俺は志ん生、円生の両方を高座で見た。円生のほうが多かった。風呂上りらしくつやつやした顔で酒を飲む噺などやると、金欠で押さえ込んでいる酒の虫がムズムズしはじめて、席がはねるやたまらずに居酒屋に飛び込んだことも何度か。志ん生はジャイアンツの納会か何かに呼ばれて一席やっているときに、無骨者たちが一向に名人の噺を聞かずに談笑していたためか、そこで倒れてしまう。再起が危ぶまれたが持ち直し再び高座に出た。一旦幕を下ろして、しばし待つ。と、するすると幕が開く。志ん生が机にもたれて座っていた。担がれて登場したのだ。少しもつれ気味の、倒れる前よりは間の多い話し振りで、そりゃあ前よりはまずいに決まっているが、俺たちフアンはもう大感激だ。『エー、三途の川まで行ったんだけどなんだか戻ってきちゃって・・』などと枕を振って客席を沸かした。

今、持っている志ん生のテープが５０本じゃあきかない。円生のはその半分くらい。好きな度合いはそれ以上に志ん生だ。毎晩必ずとっかえひっかえ”枕”代わりに聞いて寝る。夜中にふと起きて眠れなくなると又聞く。枕の内に寝てしまえばしめたもの。お二人には死んでからもお世話になっているのです。

志ん生がキリストと間違えられるなんて荒唐無稽な噺や言葉遊びの井上節が随所に繰り広げられ愉快な戯曲だ。公演は見ていない。

”笑い”の効用、というより生きていく上で必須の事柄だということが作者の日頃からのメッセージ。この戯曲のテーマもそこにある。



銭湯の下足いれだ。『湯（ゆ）にいっつくらあ』か。