ほんとに観たのか?ときおり”思い出す”旅の風景
2009年 11月 22日
このところ、時々ふっと”ある町の情景”が浮かんでくる。
いつも同じ情景。
夢で見るような一つの情景、あやふやな印象・記憶・心象風景とでもいうべきかも知らない、が浮かんできて、そのあとは不思議な懐かしい気分が胸の周りに漂う。
もっと近寄って確かめたい、その気分を手繰り寄せて味わいを深めたいと思うと幻のように消えていく。
それまで行ったことのなかった町、一晩しか泊まらなかった通り過ぎたと言ってもいいような町。
それがなぜ懐かしいのだろう?
姫路の町そのものが懐かしいのか。
広島から姫路へと二泊三日の旅全体が懐かしいのか。
そういうこともあるようだ。
だが、何かもう少し違う何かがあるようだ。
知らない町に知らない人たちが日常生活を営んでいる。
そこに入って行って、しかし、入りきれないままに時間を過ごした、というその気分が懐かしいのか。
旅をすれば必ずそういうことがあるか、といえばそうではないようだ。
いわゆる観光地で観光客と地元の人という構図が支配的な場所ではあまりそういう懐かしさは感じない。
大都会の群衆にもそれは感じない。
等身大の人がいて、その人の生活というか人生みたいなもの、それがず~っと続いて来てこれからも続いていくことを感じた場所。
その人生が俺にとって好ましいかどうかはあまり関係ないようだ。
必ずしも俺が地元の人と話をしたということがなくてもいいんだ。
ふっと何かを感じて、それと俺は切り離されているという寂寥感(または爽快感)。
用事があってスケジュールで動いていた旅ではあまり感じない。
やはりどこかに愛着はある。
喪失感があるもの。
できるものなら今すぐにもその場に戻りたい衝動がある。
人の存在も必須ともいえない。
俺自身の漂泊に対する郷愁なのかもしれない。
そのシンボルとして今は姫路の町角が現れる。
青森の森田村から金木に車を走らせているときに見た田圃の向こうに落ちる嘘のように大きな夕日が懐かしくてたまらなくなることもある。
あの寂寥感は格別だった。
何時も行きつける長野や群馬或いは上越の町々でもありません。
酒田の町と新潟北部の村上の町です。
かつては栄えた町なのでしょうが、今は日本海に面した静かな地方都市です。
何というほどのことは無いのですが、自分自身が住んでいる町が静かな地方都市であることが、同様の共感を呼んでいるのかも知れません。
考えて、忘れて、考えて、忘れて。。繰り返しの人生。
若い頃、高取山に登って、帰り道、栢森近くの小さな神社の石段に一人ぽつんと座っていた自分をよく思い出します。何の変哲もない田舎の砂利道をてくてく歩く。それが自分の人生の意味のほとんどすべてのような気もします。
だとすると白昼夢かな。
松の根方に寝転がって雲の流れるのを観ていると遠く町の音がざ~っと聞こえてきて無性にさびしくなる。
気がつくと日が落ちそうで、あわてて帰りましたっけ。
てくてくと。
誰もいない我が家に。
空が雲が夕日がこんなに奇麗だったのかとふと気付くように。
かくべきですよ。
よく私は亀の甲羅がわれちゃったりして心配してる夢をみるんです。
それは亀がか弱いから、潜在意識が働いてみるのだと思う。
以前、妹と妹の友達と一緒に1年くらい暮らした時に、彼女らも同じような夢をみた、って言ってました。
みんなみゅうちゃんを心配しちゃうの、、人の心って不思議ですね。