梟通信~ホンの戯言:今週の1冊、又は2・3冊
2024-03-28T12:48:02+09:00
saheizi-inokori
ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・
Excite Blog
死を殺す
http://pinhukuro.exblog.jp/30872365/
2024-03-28T12:48:00+09:00
2024-03-28T12:48:02+09:00
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saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
大谷騒ぎにかまけているうちに、一平よりあくどい連中がつぎつぎに亡国のたくらみを成し遂げている。
世論調査を尊重するなら、とっくに岸田は退陣せねばならないのに。
大谷といえば、彼の子どものころにつくった「曼荼羅」が有名だ。
人生の目標をきちんと「ドラフトで8球団から一位指名をうけること」とさだめて、そのために必要なことを、野球の技術面だけでなく、人間性や運の掴み方、メンタル面まで具体的に図表にしているのは、そこら辺の経営者が漫然と対前年比120%の業績を目標にして、意味もなく部下の尻を叩くよりは、はるかに優れて見事を通り越して、なんだか末恐ろしさを感じさせる。
しかも、チャートどおりに実行して今の地位に上り詰めたのは奇跡的人物だとも思う。
問題は、到達した「ドラ1 8球団」の目標を、今現在、どう書き換えるかだろう。
メンタルのなかに「ピンチに強い」とある、その真価が問われる。
子ども時代には予想もできなかった大ピンチを乗り越えるために、より大きな目標を立てることができるか。
きのうも載せた写真。
目黒総合庁舎を入ったところ、幼い兄妹が遊んでいた。
お兄ちゃんが妹を両手で抱きしめて持ち上げると、妹が喜んで大声で笑っていた。
その声を背中に聞いて歩きながら思ったことは、この子たちが僕の年になるくらい生きていたら、70年以上も前に、ここでこうして遊んだことを覚えているだろうか、ということ。
映画の終わりに次々に出てくるような、過去の大事なシーンを今の二人は演じているのかもしれない。
爺さん婆さんになった二人が、そのことを思いだして笑いあうことを祈って、ふたたび雨の中に出て行ったのだ。
韓国文学の翻訳者である斎藤真理子、彼女とくぼたのぞみの往復書簡に登場した本だ。
韓国の現代文学を産み出した韓国現代史といってもよいかもしれない。
植民地・朝鮮で生まれた身として、いささかの罪悪感ももち、すこしは現代朝鮮のことに関心をもっているつもりだったが、じつは何にも知らないことを教えられた(日本のこともよく知らないのだけれど)。
韓国のフエミニズム、逆にいえば女性蔑視の根源に、1999年末に下された「軍服務加算点制」への違憲判決があること。
軍に服務した人には公務員採用試験などで加算点が与えられていたのが、女性や障がい者などの権利を侵害するとされた、そのことが「女はずるい」という意見につながっている。
大韓民国の男と女の間には、大きな一つの契約が存在してきた。それは全男性が全女性と子供、老人、弱者を共産主義の脅威から守り、全女性はそれを全力でサポートする、というものだ。「82年生まれ、キム・ジョン」(チョ・ナムジョ)は、そういう大きな契約・物語の土台に匕首をつきつけたから、強い指示を得たし激しいバッシングも受けた。
2014年のセウォル号沈没は、セウォル号以後文学を産み出した。
この事件は単なる沈没事故ではなく、「新自由主義の体制矛盾が集中し、凝縮して発生した事件」であった。
老朽化した船を日本から買い入れ、違法な改造を施し、より多くの貨物と乗客を積めるようにし(バラストのひとつも空にしてあった)、過積載、書類の偽造、船長は非正規雇用、操縦していたのは新人の三等航海士、海洋警察が救助しなかったのは、民営化によって人命救助が私企業に譲渡されていたと説明された。
事故直後、政府など「上の方」から下りてきた言葉は、時制は不明、動詞や主語、固有名詞はほとんどなく、「責任」と言う言葉は盛んに使われても、誰が何に対してどう責任を取るのか、わからなかった。
まるで今の日本の政治家たちの言葉と同じではないか。
こういう事態に韓国の作家たちは大きな衝撃を受け、何か月も文章が書けなくなった人も多かった。
その時期を経て産み出されたのがセウォル号以後文学と呼ばれている。
キム・エラン「立冬」ファン・ジョンウン「デイデイの傘」パク・ミンギュ「目の眩んだ者たちの国家」など。
パク・ミンギュはセウォル号を解放後の大韓民国のメタファーとしてとらえている。
そして、そのセウォル号沈没は、1997年のIMF危機にその淵源を辿ることができる。
大学出の二人に一人は非正規、15歳~29歳の若者の失業率は10パーセント、主要財閥企業10グループの総売り上げがGDPの75%を占めるのに、それらの企業の全求人に占める割合はわずか1パーセント。
苛烈な格差社会になったのは、IMF危機で、コスト・人員削減による新自由主義への適応が強制されたためだ。
セウォル号はIMF危機に対する答え合わせだった。
1980年光州事件も、いまなお忘れられない、生きている事件だ。
ハン・ガン「少年が来る」は、この事件を描いた小説の決定版だという。
斎藤真理子に案内されて、僕は読まなければならないリストが長くなる。
歴史家の韓洪九は、韓国現代史は「死を殺す」という行為を積み重ねてきた、と語っているという。
「ソウルの人民軍」に描かれた朝鮮戦争、済州島の「四・三事件」、そして光州事件など、死が死であると認められない、追悼の前に、なかったことにされた死をあったことにしなければならない。
日本でも「主戦場」の輩がそのお先棒をかついでいる。
いちいち日本と較べながら読みつづけている。
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雨に歩けば
http://pinhukuro.exblog.jp/30871024/
2024-03-27T12:32:00+09:00
2024-03-27T12:32:02+09:00
2024-03-27T12:32:02+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
銀行のATMの前の歩道に、通帳らしきものが落ちている。
いつたんは、面倒だから通り過ぎたものの、引き返して手に取ると、銀行カードが挟み込んである。
警察に届けようかと思ったが、とりあえずATMの建物に入ってみる。
部屋の片隅に防犯の腕章を巻いた男がいた。
警察官かと尋ねると、そうだというので、そこで拾ったと渡した。
見るからにしょぼくれた男なので、ほんとに警察官か、と念を押したら警察手帳をみせてくれた。
本人に届くといいな、まあ、俺の務めは果たしたと、外に出ると、軽自動車の後で、刺身を盛り付けている男がいる。
豊洲からきているそうで、毎日じゃないけど、よくくるのだそうだ。
旨そうな刺し盛、2900円だという。
いつも贔屓にしている大野魚屋がずっと休みなので、なにかのときに使えるといいな、と思って電話だけ聞いておく。
(目黒総合庁舎入口)
途中からバスに乗る。
身障者半額110円が5円上がって115円だ。
目黒総合庁舎前でおりて、庁舎のトイレを借りて、目黒銀座をぶらぶら歩く。
青葉台の宿舎に住んでいた頃は、休日散歩に家族でぶらぶら歩いたところだ。
銀座という名前にもかかわらず、どことなく地方の匂いを感じさせる、親しみやすい商店街だった。
今は、だいぶオシャレな飲食店や衣料(中古)店などが増え、あのころは普通の名前だった「中目黒」が出世して「中目黒商店街」のようなネーミングが見られる。
その中目黒駅裏の飲食店街を冷やかし、駅前から目黒川に出る。
花も咲いていないし、雨で人も少ないのに、橋の両端に「立ち止まらないでください」と貼り紙があって、ガードマンがニ三人立っている。
前からの契約でそうしているのだろうが、ごくろうなことである。
目黒川は、昔なら警報が鳴りそうな勢いで泥水が流れ、何やら嫌な臭いもした。
「おおたる」などの居酒屋はすでにかなりの客が入っている。
これも前からの花見の約束をしていたのかもしれない。
卒業式帰りか、着飾った女性たちも。
西郷山通りの坂道をあがって、槍が崎の交差点を渡って、いっそ恵比寿駅まで歩こうと思いかけたら、タクシーがきたので乗りこむ、あと五日有効のチケットがある。
若い運転士の語尾に九州の匂いを感じて、訊ねると福岡からきて8年だと、子供のころに父親に平和台球場に連れて行ってもらったことなど話が弾む。
「王、金田、広岡」で「おう、金だ!拾おうか」というのなんか、僕の子どものころによく口にしたのに、彼もよくつかったという、長生きした地口だ。
「巨人、大鵬、玉子焼き」はオヤジがよく言ってたそうだ。
靴もレインコートもかなりびしょ濡れになったけれど、外に出て歩いて見ればいろいろあって、それが楽しいのだった。
「三十九階段」(ジョン・バカン 小西宏訳 エドワード・ゴーリー挿画)を読了。
南アフリカで鉱山経営をして一財産を作った男・ハネーがイギリスに来たものの、すっかり退屈していたところ、借りていたアパートに訪ねてきた男がいる。
その男は、いまロシアとドイツを衝突させてヨーロッパに戦争を引き起こそうという、無政府主義者更にはその背後にいる金のために動いている資本家たちの陰謀が進行中だといい、自分はそれを阻止するために動いている、それで命を狙われたが、代りの死体を用意して死んだことにして、ここに来たのだ、どうか助けてくれというのだ。
ハネーがその気になった矢先に、その男がハネーの部屋で暗殺される。
そんなところから、ハネーは殺人犯として警察から、死んだ男から何かを託された者として闇の組織から追われることになる。
数々のピンチを機転と幸運によってしのいだハネーは、、?
1915年(大正四年)に刊行された、英国冒険小説、スパイ小説の古典として今なお世界中で愛読されている。
巻末に解説を書いている戸川安宣は、英国冒険小説に欠かせない要素は、humourとunderstatement、ユーモアと控えめな表現だとする。
本書はグレアム・グリーンやイアン・フレミングなどにも影響を与えていることが明確に見てとれると。
どこがそうだとはっきり指摘できないが、たしかに英国のミステリの多くには独特の魅力を感じさせるムードがあると思う。
そうか、その源流が本書だったのか。
ハネーが広い見通しのきく野原を飛行機に追いかけられるところがあって、あ、これはヒッチコックの「北北西に進路をとれ」に出て来た場面とよく似ていると思った。
すると戸川の解説に曰く、1935年に本書はヒッチコックによって映画化されているというではないか。この映画は評判が良くて、その後も二度もリメイクされているそうだ。
前のブログにこの本をカフエで読んでいる写真をアップしたら、古書店を経営したこともおありの猫額洞さんが、表紙の絵をご覧になって、ゴーリーの挿絵入りが図書館にあるんだと感嘆したコメントをくださった。
不肖、ゴーリーを知らなかったが、本書巻末に濱中利信が「ゴーリー版『三十九階段』」という文章を書いて、本書のカバー、裏表紙や10枚ほどの挿絵はアメリカの絵本作家・イラストレーターであるエドワード・ゴーリーの作品であること、ゴーリーはアガサ・クリスティーを始め大のミステリ好きであること、細い線を重ねることで生み出される、ダークでミステリアスな作風から世界的にカルトな人気を博していること、「三十九階段」にゴーリーのイラストが最初に採用されたのはドイツ版であり、本書はアメリカのフランクリン・ライブラリー版の挿画を基にしていること、このフランクリン版がカバーの絵に、小説のキーワードである「黒い石」を扱っているなど、もっともこの小説にふさわしい装丁になっていること、それを採用した東京創元社はその慧眼を讃えられるべきこと、などが記されて僕の蒙を啓いてくれた。
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心打つ、貴重な日記「ソウルの人民軍」(金聖七)
http://pinhukuro.exblog.jp/30867066/
2024-03-24T12:13:00+09:00
2024-03-24T12:13:53+09:00
2024-03-24T12:13:53+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
鷗外の『雁』の語り手「僕」が、下宿屋の夕食が嫌いなサバの味噌煮だったために、岡田と散歩にでた。
そのことが、お玉が岡田に思いをつたえる妨げになって、、というあらすじは今スマホで調べた。
『雁』は読んでいたのに、そのことはまったく記憶がないな。
思いだしたのは、小学校で母が持たせてくれた弁当にサバの味噌煮が入っていて、それが大嫌いでぜんぶ残したこと。
口に入れるとオエッとなるのだ。
学校と家庭の通信に母がそのことを書いて、ふたたびサバの味噌煮が弁当に入っていた。
残すと猪瀬先生が、放課後宿直室に来いという。
そして、先生の見ている前で全部食べろ、食べるまでは帰さないという。
半べそをかきながら、オエッとなりながら、何とか食べたのを覚えている、一年生か二年のこと。
猪瀬直樹のお父さん、教育県の名をたかめたみすず教育の若き闘士ではなかったか。
惜しくもガンで早世された。
僕も二年の夏に転校したのだが、中学に進んだら猪瀬先生の奥さんが養護の先生でいらしたのはうれしかった。
コールドチェーンどころか冷凍技術もなかった時代、長野の魚はうまくなかったはずだ。
(僕御用達の酒屋)
話は変わるが、僕の猪瀬先生は理想の教師だったのだが、10年ほど前に当時の同級生と酒を飲みながら話していたら、彼は「あの先生は親の社会的地位(とうじは父が生きていた)をみてエコひいきする、イヤな先生だった、その息子だから猪瀬直樹なんてろくなもんじゃないのも当たり前だ」というではないか。
先生のエコひいきということでは、同じようなことが中学や転校後の小学校の担任についてもあって、いずれも大人になってからの同級会で、「あの先生は、、」と否定的な思い出を聞いて驚いた。
でも僕にとっては、今もどの先生も良い先生、とくに中学の先生は教育委員会かどこかに奔走して、僕を特別奨学生にしてくれたから、大学にも行けたので、恩人中の恩人なのだ。
きのうの散歩は、どっちに行こうかと迷いつつ、駒沢公園に行った。
広場にテントができていて、いつもやるラーメン大会などにくらべると規模が小さい。
近づいてみると、「民主主義ユース フエスティバル」と、旗が遠慮がちに立っている。
「日本若者協議会」主催、世田谷区、スウェ―デン、フインランド、デンマーク、アイスランド、ノルウエーの各大使館後援
パネルディスカッション、選挙小屋(超党派の政治家と気軽に対話する)、なぜか自民党のはなかつた。
若者団体・市民団体のブース、「差別主義反対」と書いた紙の下に座っていた女性に、賛成!と言ったら、ありがとうと笑った笑顔が素敵だった。
ワークショップ、エンタメ、食べ物のキッチンカーも出ている。
北欧で行われている選挙小屋(選挙前に各駅前に設置)などの事例を参考にして、今回で二度目のようだ。
河野太郎や三浦某なども出たらしい、どんなようすだったのかな。
「ソウルの人民軍」(金聖七)を読了。
日本の戦中日記は何人かのを読んだことがあるが、ソ連、のちに中国に後押しされた北朝鮮とアメリカに支援された南朝鮮の闘いの戦場となった首都に住む人の体験記は初めてだ。
解説の和田秀樹(東大教授)もこういう記録は希少で価値が高いという。
朝鮮民族を心から愛しているのに、日本に踏みにじられ、やっと独立すると大国の利害対立に巻き込まれて同胞相打つ悲劇を迎え、自らも日々の苦労にへとへとになりながら、悲しみ、怒りながらも、歴史学者の見る目は冷静客観的、鋭く指導者たちの愚かさを剔抉する。
その愚かさに妄動せざるを得ない人々の哀しさも記録する。
今日、この世の中は「三つの『わからぬ』があれば生きることができるというのである。どういうことかというと、①外から見てあるかないかわからぬ村に、②家であるかどうかわからぬ一軒の家を持ち、③人間であるかどうかわからぬ程度に身を処してこそ、生き残ることができるというのだ。
無慈悲な左右の抗争が残した田舎の人々への教訓である。貴重な、今僕たちが読んでも「面白い」、とても参考になる、心打つ日記を残した金聖七は、51年10月故郷を訪ねた際に、精神疾患を持っているとも噂された暴漢に襲撃されて38歳で亡くなるのだ。
1950年1月1日の日記に記された「新年の誓い」
1 言葉も文章も無駄にしないこと。 2 謙遜、寛大に、自分がうまくやったことを吹聴したり、書いたりしないこと。 3 他人の誤り、学説の間違いをあげつらうことをせず、自らの正しい行動と深い勉強によって、これを包んでしまうこと。 4 約束することを慎み、ひとたび承諾したことは誠実にこれを履行すること。 5 書くことよりは読むことに、読むことよりは考えることに。 6 小さなことでも遠い明日を推し量り、人生の深い意味を考えて語り行動すること。 7 毎日(一日も飛ばさないで)何かを読んで考え、その結果を日記に書いておくこと。81歳・僕は出来ていないことがほとんどだ。
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政治技術としての恐怖政治
http://pinhukuro.exblog.jp/30864401/
2024-03-22T10:50:00+09:00
2024-03-22T10:50:40+09:00
2024-03-22T10:50:40+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
落語、先代馬生の「八五郎出世」などを聞くも、面白くなって目が覚めてしまう。
五分で眠れる、とかいろいろスマホでごまかそうとしたが、うまくいかない。
6時過ぎにようやく眠くなった、ああ、このまま寝ていたいと思ったが、今朝はゴミ出しやら、眼科に行かなければならない、とがんばって起きる。
あんのじょう血圧があがっている。
それでも洗濯をすませて、ストレッチや筋トレをして、やや元気がでてきた。
「ソウルの人民軍」、百ページほど。
北の侵攻に対して、心配しないで自分の仕事を守れ、という政府の放送が繰り返されるが、私は、この放送もそう信じてはいない。こののっぴきならぬ時局において、国の公式発表を信じられない私の心が悲しい。国と個人との間では、いつも必ず正直な話をしなければならないのに、一時の便宜のために偽りの道を歩むのは、これはつまり自滅の道に通じるものであることを改めて痛切に感じた。のっぴきならぬ時局にあるとまでは思わないけれど、少なくとも滅びへの道の瀬戸際に近づいている現在日本の政府発表およびNHKの放送が、一時の便宜のための偽りが多く、なかなか信じられないのも、悲しいことだ。
食糧不足は窮まる。
学生たちが食べ残していった麦が三、四升ほど、あったのを、持ち主はいないが、まず食べてから事後承諾を得ることに(妻と)意見が一致する。
ごたごたを経験する間に、我々も次第に処世術に長けてきたらしい。
戦争と倫理、このふたつを結びつけて考える学者はいなかったのか。戦争は人間を変質させるものであると、いま痛切に感じる。だから倫理も変らなければならないのだ。
(自家の)かぼちゃ畑に見慣れない人が入り込み、勝手にかぼちゃをとっている。何をしているのかと問いつめると、飢えで死にそうでどうしようもなく入ってしまったとの答え。顔をみると黄色くなっている。このような人に対して所有権を主張するのは、とてもできない相談だ。悲惨な記事の中にユーモアが健在する。
なんの罪を犯した覚えがなくても、いつ「反動」と見なされ、銃殺を含む厳しい処分を受けるかわからない。
「反動」のレッテルは彼らの気分でどうにでもなるのだ。
人びとは疑心暗鬼になりおどおどした、だらしのない人間になってしまう。
これがまさに、人民共和国の得意とするところなのかもしれない。
誰もが飢え死にするほどになり、生きながらえようとするなら党に合わせて踊りを踊るしかない、、、。
皆が恐怖に陥り、政府のすることにただ白紙委任状を書き送るしかない、、、。ある意味にいおいて、政治技術として完璧かもしれない。
そんな思いを抱きながらも人民軍が健闘していると聞くと、あの日本でさえ降伏せざるを得なかった米軍を相手にして、どんどん勝ち進んでいるということは、これこそ朝鮮人として誇らしい事実ではないか。政治のやり方次第で、我々もこのように大きな力を出すことができると考えると、その政治勢力のよしあしはともかくとして、またそれに対する私の立場のいかんを越えて、一種の民族的誇りを感じる。つかの間の優越、誇りであった。
まだ引きたいところがあるけれど、けさはこれから眼科に行かなければならないので、ここまでとする。
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朝鮮戦争下のソウル
http://pinhukuro.exblog.jp/30863192/
2024-03-21T12:05:00+09:00
2024-03-21T12:05:16+09:00
2024-03-21T12:05:16+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
一昨日、焼き鳥をガブっとやって、危なかった。
やっと食べる前にそれが頭に浮かぶようになって、小さく切ってもらって食う。
テレビで、イチゴパフエが2600円もするのを食うのをみて、バカみたいと言ったら、カミさんがイチゴとアイスクリームで、小さなイチゴパフエを作ってくれた。
どっちも写真を撮り忘れた。
そういったら、今日も作ってくれた、こんどは抹茶のアイスで。
すばらしい青空なのに昼から雨という予報が外れた夕方、「ほれみろ、降る筈がない」って言っただろうと、心の中で気象庁に悪態をついて、図書館に行き、クッツエーを返して、ついでに先週の週刊新潮(書評欄)を、ほんの5分くらい眺めて、外に出たら、暗くなって道路が濡れている。
(ハクモクレンもみんな飛ばされてしまう)
傘もささずにかけだすと、なんども稲妻が光り、ぐあらぐあらぐお~ん!、雷が鳴る。
痛快痛快!帽子とパーカーが濡れたけれど、痛快だった。
くぼたのぞみと斎藤真理子の往復書簡集で教えられた本。
副題にあるように、1950年6月25日に、とつぜん38度線を越えて北朝鮮軍が侵攻して始まった朝鮮戦争において、ソウルにとどまった歴史学者の日記だ。
筆者の金聖七は、1951年10月、故郷の永山に行く途中、暴漢に撃たれて死ぬ。
遺された日記を、妻の李男徳(イ・ナムドク)が、それを生きる支えのようにして、日本語に訳して、新聞紙に包んでしまっておいた。
四十数年後に舘野晢(あきら)が、翻訳出版を思い立って原書版元との交渉過程で、この翻訳もあることが判明、共訳とした。
李男徳の「日本の読者へ」という前書きに、
彼の日記は原稿用紙(二百字詰め)に書かれて、「一九五〇年」という表題を背につけ、彼自身の手で綴じられていたのですが、私のは粗末な紙質の小型(ペラ二百字詰め)原稿用紙で、綴じ込みもしないそのままのものです。ところどころ染みの付いている部分は、これを訳しながら泣いた私の涙の痕跡にちがいありません。とある。
そしてこうも書いている。
私たちはいま(1996年)、民族の統一を前にして、過ぎし日の傷痕に触れずに覆い隠してばかりでいいのか、と反問してみる必要に迫られています。民族においても個人におけると同様に、意識の成熟がなされれば、苦痛は克服できると思います。苦痛の徹底的な克服のためにも、苦痛を隠したり回避してはならないのです。
集団的イデオロギーにどれほど染まれば、同族に銃口を向けるようになるのか、人間はなぜ戦争という行為をするのか、という根源的な問いに対しても回答をしなければならないと思います。これこそが人類に与えられた大きな宿題でありましょう。戦争とは人間の狂気であり病いなのです。時間が経過すれば、表面的には治癒されたように見えますが、根本的な治癒がなされなければ、またいつか、どこかで始まるかもしれないのです。北朝鮮の人民軍が、ソウルを統治するや、李承晩大統領に忠誠を誓う人びとは逃げ出すか、さもなければ、金日成やスターリン万歳を云って、生き残る道を探す。
そのなかで、金聖七は、どちらにもつかず、心の自由と独立を守ろうとする。
業火の燃え盛る上に一本張られた糸の上を歩くような危うい日々、かねてからの親友でさえも信用できない。
食糧難もひどくなる。
人びとは、巧みにまたは強引に義勇軍に駆り出される。
集会に参加させらて、そのまま家族と別れを告げることもできないままに。
それが怖いので集会は女性が出るようになる。
ソウル市民百五十万のうちから五十万人を減らそうと、あちこちで転出命令が出て、数十時間の間に、地方の農場や工場や鉱山に送り出される。
まだ90頁しか読んでいないが、朝鮮人が、ようやく日本の酷薄な支配から逃れたと思ったら、ふたたびこのような惨禍に遭わねばならなかったことが、気の毒でならない。]]>
未来は偽装してやってくる
http://pinhukuro.exblog.jp/30860330/
2024-03-19T11:27:00+09:00
2024-03-19T11:27:37+09:00
2024-03-19T11:27:37+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
坂の上のほうに、あれはなんだろう?
お母さんが子どもをおぶつて、押しているのは乳母車?
近づいてみたら、リヤカーだ!
中にはお揃いの帽子をかぶつた赤ちゃんが6人、作り付けらしい椅子に座っている。
一人の子は顔に泥がついて、鼻水が2本だらり、僕の顔を見て笑った。
その前を、もう一人の女性が右と左に一人づつ手をつないで歩いている。
寒い、強い風に、ガンバレガンバレと自分とリヤカーを押す同僚に声をかけながら。
追い抜くときに、だいじょうぶですか?尋ねたら、だいじょうぶですと笑って答えた。
追い抜いて、ちょっと先に行ったら、後ろから赤ちゃんの大きな泣き声が追いかけてきた。
「鉄の時代」読了。
70歳、治らないガンの宣告をうけて、みずから病院にいることを拒否して家に戻ると、ホームレスがいた。
アメリカに送り出した最愛の娘には順調だという。
帰って来てほしいけれど、そうは言わない。
その娘に遺書のようにして、最期の壮絶な日々のこと、自分の思いを書き綴る。
死んだ後で、ホームレスが、それを郵便局にもっていってくれる保証はない。
信頼できないから信頼することに賭けるのだ。
魂にとって居心地のよくない時代に、わたしはその魂を目覚めさせておこうとしているのよ。
この生命を彼の手にゆだねる。これがわたしの生命、これらのことばが、このページのうえを蟹のように動く指の軌跡が。これらのことば、それをあなたが読みすすむうちに、もしも読めばの話だけれど、そのことばがあなたのなかに入り、ふたたび息づく。そのことばこそ、あなたさえよければ、わたしが生きつづける方法なの。そのむかし母のなかでわたしが生きていたように、そのむかし、わたしのなかであなたは生きていた。母がわたしのなかでいまも生きているように、わたしが母へ近づいていくように、あなたのなかでわたしが生きられるといいのだけれど。そう書きながら、一方では娘の手紙に「愛に生命を吹きこむような、愛して許すものが十分にはない」と非難し、叱責する。
子どもなしで、わたしは生きられない。子どもなしで、わたしは死ねない。
あなたの不在のなかでわたしが耐えているのは、苦しみ。わたしは苦しみを産み出している。あなたはわたしの苦しみなの。自分を捨てたと非難し、帰ってきてと呼びかける。
どうしても愛を感じない黒人の少年が、殺されるときには身を挺して権力にあらがい、救おうとする。
愛せないから、愛さなくてはいけないと思うのだ。
アパルトヘイトと戦うインテリ闘士リーダーに「(彼らの言う)同志の絆というものは、死の神秘的解釈にほかならない」と断言する。
いまもあの、犠牲を呼びかける叫びが嫌でたまらない。若者たちが泥のなかで死んでいくことになる、あの呼びかけが。どれほど偽装を凝らそうと、戦争は戦争、仮面を剥げばわかるわ、ひとつの例外もなく、美辞麗句の名のもとに、年長者が若者を死へ送り込むことよ。ミスター・タバーネ(リーダー)がなんといおうと、(彼を責めるつもりはないの、未来は偽装してやってくるものだから、もしも未来が剥き出しの姿でやってきたなら、わたしたちはそれを見て、石のように動けなくなるはずよ)。自由か、さもなくば死か、若者はそう叫ぶけれど、その言葉は彼らが考えたものではないのだ、ダメ、自分を大切にしなさい!とカレンはいう。
アパルトヘイトの罪は、彼女の知らない昔に犯された。
だけど、そのなかに自分が生み落とされて、自分が受け継いだ遺産の一部なのだ。
それはわたしの一部であり、わたしはその一部なのよ。
罪の代償としての恥、恥のなかで生き、恥にまみれて死ぬ、惜しまれることもなく、いずことも知れぬ場所で。それをわたしは受け入れた。そして、個人の名誉ということでは、恥を道案内にして、自分が恥ずかしいと思う限り、不名誉にはならないと思っていた。
しかし、それは計算違いだった。
この時代が要求するのは、たんに善良な人間であることとは全く異なる、”ヒロイズム”なのだった。
あるものは学識教養のみ、あとはボロボロになった老いたる瀕死の女性の、なんと凛たる最期、悲劇的最期であることか。
いつかもう一度読まなければならないと思った。
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戦争の時代に起きること
http://pinhukuro.exblog.jp/30858933/
2024-03-18T12:33:00+09:00
2024-03-18T13:06:00+09:00
2024-03-18T12:33:49+09:00
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今週の1冊、又は2・3冊
血圧を測ると146、気いつけなあかんな。
松山の一六本舗「坊ちゃん」、
開けてみると、
抹茶、卵黄、小豆の団子三兄弟だ。
坊ちゃんは団子を食っただろうか。
走り読みすると、住田と云うところの遊郭の入口にある団子屋で食ったとある。
二皿七銭、それを翌日の教室の黒板に書かれて、呆れている坊ちゃん。
住田は道後をモデルにした地名、道後温泉の団子屋が、坊ちゃん団子を開発したという。
漱石がじっさいに食ったのは「湯晒団子」、湯にさらした団子を餡で包んだものだった。
スマホに向かって口頭で尋ねると、たちどころにいろんなことがわかってしまう。
松山の悪ガキどもも、びっくりして降参するだろう。
クッツエー「鉄の時代」、半分読んだ。
主人公・白人、元ラテン語教師のカレンが、アパルトヘイトと戦おうとしている若者、白人はすべて敵とみなして、口も利かず、言うことに耳も傾けない若者が、警察官の乱暴で怪我をしたのを助けたときに、話しかけたことば。
もしも、あなたがトゥキィディデスの講義に出ていたら、戦争の時代にわたしたち人間にどのようなことが起きるものなのか、学んでいたかもしれないわね。わたしたちがもって生まれる人間性について、そのなかにわたしたちが生み落とされる人間集団について。
トゥキィディデスは書いたのね。規則をつくり、それに従った人間について。彼らは規則どおり、敵の全階級を殺した。死んだ者の多くが感じたのは、恐ろしい過ちが行われようとしている。その規則がなんであれ、彼らのためのものではない、ということだった、そうわたしは思うの。喉を搔き切られたとき、断末魔に彼らが発したのは「わたしは!、、、」だった。抗議の言葉よ――わたしは、例外だって。
彼らは例外だったかしら?話す時間があたえられるなら、わたしたちのすべてに例外だと主張する権利がある、それが真実よ。だれもが個別に裁かれるべきなの。わたしたちのだれもが、疑問を投じる利益を享受できるはずなの。でも、そんな時間がない、例外や慈悲をかけたりする時間がない。
わたしたちがそんな時代に入ろうとしているのは、とても残念なこと。そんな時代には、おおいに意気消沈して入っていくべきだ、というのだ。
こうして、長々しく、ぽつりぽつりと入力して引用するのは、とても面倒なことだが、これをやると、読んだときには気づかなかったことば遣いや、文章の意味を知ることができる。
まして今朝みたいに、一回目が消えてしまったときはなおさらだ。
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重い
http://pinhukuro.exblog.jp/30857632/
2024-03-17T13:09:00+09:00
2024-03-17T13:56:04+09:00
2024-03-17T13:09:21+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
花粉症は終ったと思ったのに、若返ったのかな。
以前のようなひどい症状ではない。
散歩から帰ってきたら、前の家から「はあくショ!」と女性のクシャミの声が聞こえた。
ときどきゴミ出しで会って、丁寧にあいさつするおばあさん、ひっつめにして、身の回りに隙のない様子、くしゃみも、上品だけど音だけは大きかった。
細い溝にかぶせた蓋、目がみえた頃のサンチはここを歩くのが好きで、すたすたと走つて行って、僕を振り返ってみていた。
きのうは、大掃除のあと、WCH超党派議員連盟総会の録画を見たり、関連のXを調べていたら、本を読む時間が少なくなってしまった。
規則を無視して、拙速に決議を成立させるWHO、麻生太郎も怪しげな機関と批判する組織運営によって、危険なワクチンが独占的に認められて、ウイルスを怖がる人々に選択の余地もなく、使用させられる。
遅すぎるかもしれないが、いろんなことを今頃になって知る。
遅くても知らないよりはよいだろう。
くぼたのぞみの翻訳紹介した、ノーベル賞作家・クッツェ―の小説のなかから、とりあえず「鉄の時代」を借りてきた。
1986年、南アフリカのアパルトヘイトが崩壊しつつある南ア・ケープタウンに住む、白人女性・カレン・70歳が主人公・わたし。
助からない癌の宣告を受けて、遠くアメリカに住む娘にあてて書いた遺書。
それは自分が死んだのちに、たまたま世話をするようになったホームレスに託される。
ホームレスは届ける(郵送する)ことを確約しないのだ。
日記のように日々の出来事、ホームレスを受け入れた経緯、戻ってきた黒人の家政婦・フローレンスとその二人の幼い娘さらに15歳になる息子とのいろいろ、死の宣告を受けた心境、過去の様々な思い出などが語られる。
もしもあなたがここにいたら、あなたに向かって叫ぶわ。でもあなたはいない。(略)だれの胸でもいいから抱きかかえられて、だいじょうぶ、といってもらいたいのだ。痛みで眠れない深夜に、三人の子供といっしょにぐっすり眠っているフローレンスのことを、羨望と憧れの気持で思う。
四人は、それぞれのリズムで息をしている。どの息づかいも、しっかりと強く、病を知らない。かつてはすべてをもつていたのに、そう思った。いま、すべてをもっているのはあなたで、わたしにはなにもない。この時代を「鉄の時代」と呼ぶことについての記述がある。
いずれやってくるはずの、柔和な粘土の、土の時代に至る前の、国家のため、民族のため、戦士となる息子を産み、鉄の心をもったスパルタ教育をする時代。
「子どもたちが決して微笑まないよう、決して泣かないよう、拳を振り上げるよう、たがいに訓練するよう時代」「できそこないの、怪物みたいな、時節はずれの」アフリカの黒人世界に鉄の時代をもたらしたのは、じつはわたしたちでは、なかったか。
アフリカにおける<ジュネーブの勝利>、冷血・冷酷なカルヴァンの勝利!
僕にはよくわからない問題提起だ。
読んでいくうちにわかるようになるのか。
60頁しか読んでいないが、重い小説だ。
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日本人は猿の代用か
http://pinhukuro.exblog.jp/30856437/
2024-03-16T14:00:00+09:00
2024-03-16T14:00:53+09:00
2024-03-16T14:00:53+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
花がでなくなったシクラメン、もう終わりかなというので、毎日花や葉を根のところから引いて、気を送りながら見守っていたら、出て来た出て来た、この色のシクラメンがいちばん好きだな。
大掃除とストレッチの後、遅い朝飯を食べて見るともなく見ていたテレビで、死語についてやっていた。
「ほんとに?」が「マジ?」くらいまでは知っていたけれど「マ?」と一文字にまでなっていたなんて知りもしなかった、その「マ」が死語になったといわれてもなあ、僕には最初から生きていなかった言葉だ。
なんでもかんでも、短くして言うらしい。
「ムズイ」は「難しい」の略だろうが、日曜日の朝だけ聞くFM埼玉の漫才コンビが頻発するのだ。
埼玉ご当地クイズの問題が「ムズイ」って。
本格的なアクセントの英語交じりや、私って素敵でしょ的甘ったれや、気どってしゃべるアナウンサーより、ざっかけない二人のやり取りが気に入っているのに、ムズイはいただけない、カイカイがひどくなりそうだ。
「マ」だの「ムズイ」だの、いっときの流行りの言葉は、さっさと消えていってもさばさばすれどもちっとも惜しくない。
「メッチャ」「めちゃくちゃ」なども、できれば本来の使いかたにとどめて、「とても」とか「たいへん」とか「驚くほど」とか「すごく」などと使い分けてほしい。
いまは使われなくなっていて、その意味では死語なのだろうが、もともとはまっとうな日本語で、そのまま消えていくのは惜しい、そんな言葉は、知らない人には申し訳ないけれど、使い続けていきたい。
僕だって、本を読みながら、しょっちゅうスマホで言葉の意味を調べている。
きのう調べた言葉、「ソーシャルインパクトボンド」「WCH超党派議員連盟」「シモニデスの記憶術」「トライク」、、、。
その「WCH超党派議員連盟」というのは、2021年にイギリスで、世界45か国の医師、科学者、法律家、人権擁護運動家などが集まり、人と地球の健康や幸福よりも企業利益を優先する大手製薬会社による医学研究の支配に反対する組織、今度の5月総会をめざすWHOのパンデミック合意、世界保健規則改正に反対している。
日本支部も原口一博衆院議員を代表に昨年11月に発足し、活発に活動をしている。
定義のないままにパンデミックとWHOが認定すれば、ワクチンの接種などを加盟国に命令できるようにするらしい。
その動きの詳細が明らかにされないままに、岸田政権は前のめりで規則改正にむけて動いている。
おととい開かれた第五回会合の様子。
本日(3/14)の超党派WCH議連(仮称)
大阪府泉大津市の南出市長がオンライン参加
原口議員からの「例えば?教えてください」という質問に、
堰を切ったように、新型コロナワクチン接種後の異常事例を話し続け、止まらない南出市長
大変なことが起きています。知ってください。 pic.twitter.com/3jRdr6wdxb— 藤江@日本人、謎の大量死※コロナでは説明できない (@JINKOUZOUKA_jp) March 14, 2024
本日2024/03/14に行われたWCHJの一部です。世界的に実験用の猿が高いから岸田が国を上げて日本人を使い治験を行う。
第5回WCHJ(仮称)超党派議員連盟総会勉強会 https://t.co/rAVFlMccaS @YouTubeより pic.twitter.com/XtVLMbWmf4— トッポ (@w2skwn3) March 14, 2024
第五回の全容→https://youtu.be/R274KrtPY6s?si=ELN_FWYiiuyO6HfU
長いけれど、ご覧ください。
エライことになっていますよ。
「QJKJQ」(佐藤究)読了。
気持悪いと思って読み始めたが、途中から推理小説?SF?フアンタジー?変化して最後まで読みとおせた。
巻末に江戸川賞の選考委員の選評が載っている。
絶賛は、有栖川有栖、「これは平成の「ドグラ・マグラ」である」
今野敏、「殺人そのものを突き詰めることで、人間を見つめている。脱帽だ」
湊かなえ、「一番高い評価を付けました。文章が上手く、たくさん張られた伏線もすべて回収されていて見事だと思いました」
懐疑的なのが、池井戸潤、「果たしてこれが周到に準備された小説といえるか、という疑問が最後まで拭えなかった」
辻村深月、「すべてが丁寧にまとまりすぎ、(驚きへの期待が)果されないまま終わってしまった」
辻村の選評はとても丁寧に、評者が不満だった点を挙げていて、僕もそのほとんどに頷ける。
堪能した佐藤究ワールドから脱出すべく、図書館で五冊も借りてきた。
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刑罰としての記憶の破壊 絶後の畏怖
http://pinhukuro.exblog.jp/30854990/
2024-03-15T11:56:00+09:00
2024-03-15T13:38:48+09:00
2024-03-15T11:56:08+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
つけたと思うと、食器を洗ったりで、せっかくつけたクリームが落ちてしまうような気がする。
そんなにしょっちゅう、クリームをつけるのは贅沢な気がするなあ。
昔、母が使っていた「桃の花」は、高かったのだろうか。
(古道具屋で)
散歩中にであった、母と息子の二人連れ、二人で歩くのはぎごちなさそうでいて、どこか晴れがましいような空気が漂う。
近所の高校の門をくぐって行った、その先に「合格者手続き」の張り紙、なあるほど。
日体大は、今日が卒業式らしく、「卒業式」の立て看板の用意をしていた。
(学芸大学前の近くで)
合格不合格、悲喜こもごもだ。
でもいくら「いい」学校に受かったって、それがPerfectDaysの始まりになるとは限らないんだなあ、これが。
人さまざま、その人にとってのPerfectDaysとは何か、そこが大事なんだ。
僕みたいにふらふらとアルバイトと酒の学生時代を過ごしてしまうことだけはするなよ、もったいないじゃないか。
(納豆キムチ、堅いトーストに乗せてランチ)
すれ違う男性が、手に洋菓子屋の袋をもっていた。
帰宅したら、カミさんが、今日はホワイトデー、知ってた?
知らなかったといったら、そうだと思っていたそうだ。
チョコレートの代わりに、バスタブを洗って、トイレもキレイにしといてあげた、といったって、いつもやってることだから有難味はないやね。
わたし・殺人者家族の娘、自分も「いっそ死んでしまいたいくらい退屈。もし人殺しをやっていなかったら、どうやって生き延びていたんだろう?快楽殺人のスペシャリストの家族が生き方を教えてくれなかったら?」と考える女子高校生だ。
父、母、兄、そしてわたしの殺し方のスタイルが凄まじい、とくに父のそれはわたしも恐ろしい。
なんでこんなの読まなきゃいけないのか、もうやめようと思った。
それなのに、図書館に返す前に、と少し読み始めたら、こしゃくなことに面白くなってきた。
江戸川乱歩賞をとったのだし、「幽玄F」や「テスカトリポカ」(直木賞&山本周五郎賞)の作者だから、なめてはいけない。
「ダムナティオ・メモリアエ」、古代ローマで、元老院に逆らった者に、皇帝も含めて、究極の刑罰として下された。
記憶の破壊、その人物が生きた記録や痕跡の、ありとあらゆるものが「なかったこと」にされてしまう。
コインの肖像も削られる。
自分が今こうやって生きてきた道のりのせいで、逆に自分のすべてが世界から抹消されてしまう。
未来が過去を吞みこみ、しかもその原因を作ったのは過去だ。
ウロボロスの蛇のように、生きる自分と、死ぬ自分が、おたがいのしっぽを呑みこみ合う。
兄が惨殺されていて、母がいなくなり、、わたしは父を疑う。
家を出たわたしは、次々に異常な出来事に出遭う。
それは、絶後の畏怖、あったものがなくなっていくのだ。
どういう結末になるのか、早く読み終えて、次の本を読みたい。
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コロナワクチン後遺症の真実(福島雅典・文藝春秋)
http://pinhukuro.exblog.jp/30853505/
2024-03-14T11:51:00+09:00
2024-03-14T11:51:33+09:00
2024-03-14T11:51:33+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
らくちんだけれど、青空をみているとなんとなく罪悪感がある。
その分、トイレと洗面所の掃除は念を入れてやったのだけど、日差しを無駄にしているという罪悪感だ。
📢2022年11月の福島雅典先生(京都大学名誉教授)。やっと最新の『文藝春秋』に記事が掲載された。もはや新型コロナワクチンを信じるほうがカルト信者だろう。論壇誌でのワクチン後遺症の掲載は、この大薬害が医療時事問題として看過できない事態になっていることを意味する。pic.twitter.com/W25lFtZfKW https://t.co/7BUGlVOL3N— ワクチン後遺症の被害を防ぎたい (@Novaccinekita11) March 10, 2024
福島雅典先生(京都大学名誉教授)の凄まじい怒りの会見の様子をXで見て、図書館で「文藝春秋」を読んできた。
貸し出しは出来ないので、館内でメモをとりながら読んだ。
記者会見のような激越な調子を抑えて、冷静客観的な筆致で、コロナワクチンの危険を解く。
最近までの健診で総合Aと判定されていた28歳の男性が、フアイザー社のコロナワクチンを二回目に打って、五日後に「心筋融解」、心臓が融けて死んでしまった。
2021年12月から2023年11月までのあいだに、学会で発表されたコロナワクチンの後遺症と見られる症例は201例にのぼり、それは心臓、腎臓、肝臓、リウマチ、糖尿病、皮膚、血液、血管、神経、肺、消化管、、およそ全身のあらゆる体内組織に及んでいる。
僕のしつこい皮膚の湿疹や紅斑なども、六回も打ったコロナワクチンのせいかもしれない。
世界中では7071例が報告されている。
パターンが決まらず、全身に起り、複数の疾患が同時に起ることもある。
エイズウイルスの発見でノーベル賞を受賞した、仏のリュック・モンタニエは2021年にフランス国内で26例の後遺症と見られるヤコブ病を報告した。
日本でも3回目の人からヤコブ病が報告された。
厚労省の報告では2021年で、ワクチン未接種者より、1,2回接種者の方が致死率があがっている。
2022年新規陽性者数は、大半の年齢層で未接種の方が低い。
重症化率や致死率のデータを文書開示要求したら、不開示の決定通知がきた。
HER-SYS(感染者等の情報管理・把握システム)がありながら、そのデータを要求するとすべて黒塗りで示された。
なぜ、コロナワクチンの後遺症が多くかつ危険なのか?
体内細胞に打ち込まれて免疫反応を起こさせるmRNAが厚労省の説明とは異なって、化学構造が改変され、また脂質ナノ粒子を包み込むことで、壊れにくくなって、いつまでも体内をウロウロする。
そのために、影響はないとされたDNAにも作用することも危惧される。
癌、とくに白血病はワクチン接種後死亡率が上昇に転じ、乳がんは三回目接種後一気に死亡率があがり、卵巣がんの進行が速くなった。
免疫力の低下、ワクチンによって作られるスパイクタンパク質のがん抑制遺伝子などの働き抑制などが原因と疑われ、アメリカではスパイキオパシー(スパイクタンパク質症)と呼ばれている。
東京理科大学名誉教授・村上名誉教授などが、その検査法を開発中である。
福島教授は、2023年6月に「ワクチン問題研究会」を設立した。
新型コロナワクチンによる健康被害認定は2021年8月から2023年12月で5735件(死亡420件)に対し、1974年2月から2021年12月の間のコロナワクチン以外のワクチンによる健康被害は3522件(死亡151件)、45年間の件数をコロナの2年で上回った。
現行知識で議論できる範囲を超えたワクチン禍。
遅発性の毒性は考えられないことばかりだ。
国民の体質は変わってしまったのだ。
それではワクチンを打ってしまった人はどうしたらよいか?
食事、運動、睡眠、心のあり方など日常の生活を管理して免疫力を落とさないこと、それにつきる。
良質なタンパク質、新鮮な野菜や果物を十分にとる。
ビタミンDと亜鉛、干しシイタケ、牡蠣、レバー。
足踏み、スクワット、寝ている人は手足のグーチョキパーなど、気持のよい運動。
日に当たる。
腹式呼吸で副交感神経の優位をはかる。
ファイザーでワクチン研究開発部門の責任者だったキャサリン・ヤンセンは、退職直後に私たちはまだ製造している途中の飛行機を飛ばした。と述べたそうだ。
いやはや、だね、おのおのがた。
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認知症vs直木賞
http://pinhukuro.exblog.jp/30849379/
2024-03-11T11:30:00+09:00
2024-03-11T11:30:03+09:00
2024-03-11T11:30:03+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
食器を片付けたあと飲むことにしていた漢方薬が切れてしまったので、夜のルーテインがまだ定まっていないのだ。
固有名詞、人名が出てこないのが普通になった。
認知症外来に行く時なのか。
行ってどうなる。
日曜日の駒沢公園、陸上競技場はサッカーの試合が終わったようだ。
幟の選手、誰も知らない、一人一人の幟があるなんて、大相撲や寄席みたいだな。
競技場の外にある回廊、小さな子を連れたママが入って行ったので、僕もついていく。
しばらくすると、親子が戻ってきたので行き止まりなのかもしれない。
まあ、行けるところまで行ってみよう。
正面の入り口に出たので、そこから出ると、係の男性が、礼儀正しく「お疲れさまでした」とお辞儀をする。
関係者と見られたのだろうか。
バレーボールの競技場前では、若い男女がダンスの練習をしている。
鳥山某という漫画家の作品を読んだことのない僕は、ダンスと言えば「お遊戯」か「フオークダンス」だ。
ああ、ウエスタン酒場で、ウエスタンのダンスを教わったことがあるなあ、あれもフオークダンスに似ていた。
「テスカトリポカ」読了、フーと息を吐く、読み応えのある大作だった。
作者、渾身の力をこめて書いたと、その気迫が伝わるような作品といえる。
しかし、僕にはしつこすぎる、とくにアステカの神話の繰り返し(太字)が。
臓器密売、とくに日本の無国籍の児童のそれをめぐる話は、読みたくない気持ちになる。
しかし、世界では現実にこれ以上悲惨な児童虐待・虐殺が、我が日本の親分・アメリカの支援のもと繰り広げられているのだ。
眼をそむけることは許されないのかもしれない。
直木賞と山本周五郎賞のダブル受賞、それだけの価値があるのだろうか。
直木賞受賞の際の、審査員たちの講評を読んでみた。
絶賛するのは、三浦しをん、「圧倒的な傑作だ」「世界に満ちる暴力性の問題を徹底追及する本作は、暴力と理不尽を越える希望をも、ちゃんと提示してくれている」。
宮部みゆき、「直木賞の長い歴史のなかに燦然と輝く黒い太陽」「(最近書きにくくなっている現代の)きわめてまっとうな勧善懲悪の物語」「私は読後、参りましたと感嘆することしかできなかった、傑作です」。
林真理子、「並外れた筆力、偏執的な知識と書き方に圧倒され驚いた」「この作家は、調べていくことに快楽を感じているはずで、その快楽は読み手にも伝わっていく」。
角田光代、「この凄惨な小説にちりばめられたうつくしさも、私には見たことのない、触れたこともない種類のものだ」。
否定的なのは、北方謙三、「よくあるアクション小説の域を出ていない。非人間的にさえ見える暴力が、なぜか読む側の痛みを誘発してこない」。
浅田次郎、「登場人物のおのおのが、当たり前の人間感情を欠くのである」「死は文学の欠くべからざるテーマにはちがいないが、死をかくも丹念に描くことはむしろ、人間不在の反文学としか思えなかった」。
伊集院静、「最後まで小説として読めなかった」「小児の扱いがこれほど安易になされて、文学の品格は問われないのか」。
桐野夏生は肯定的、高村薫は、やや懐疑的。
こうして比べてみると、それぞれ当たっているところがある。
しかし僕の感想は、北方、浅田、伊集院に近い。
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映画を見なくなった
http://pinhukuro.exblog.jp/30845368/
2024-03-08T11:55:00+09:00
2024-03-08T11:55:58+09:00
2024-03-08T11:55:58+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
静かな家だと思っているが、雨や雪の日はその静かさが深みを増すのか、それとも単に怠け者になっているからか、よく寝た。
きのう部屋干しした靴下や下着を乾かすためにエアコンをつけて、スマホに外気温を訊くと1度、そんな体感はなかったのに、数字をみたのとエアコンの暖気を感じたら寒いと思った。
きょうも部屋干し、エアコンもつけっぱなし。
最後に映画をみたのは、コロナ禍のさいちゅうに、ほかの用で二子玉川に行ってたまたま開始時間にぶつかった「鬼滅の刃」を見たのだった。
映画は見つけないと、見たいという気持ちもだんだん薄れていく。
でも今どんな映画が面白そうかと新聞の映画欄をみることは續き、そのなかで「枯葉」と「PerfectDays」は、見たい気持ちをそそられた。
しかし時間を調べるなどの行動に出ることはなかった。
ときどき、ブログなどで面白かったという記事を読んだり、ラジオで「PerfectDays」に出てくる音楽を、そういわれてきくと、そのたびに、ああ、見たいなあ、と思う。
(皮膚科の前で)
さっき、今どこの映画館で何時からやっているかと調べたら、これから家を出たのでは間に合わないか、夕方の食事時間にあたる上映のみだ。
少々のことがあっても映画館にかけつけるようなことがなくなってしまったのだ。
斎藤真理子の訳した韓国小説「もう死んでいる十二人の女たちと」を読み始めた。
裏表紙に「距離感そのものが主人公であるかのような、パク・ソメルだけの独創的な物語作りの土台がある」と斎藤が書く、「いま韓国で最も注目される新鋭」(裏表紙の袖)の短編集。
斎藤と作者が話しあって編んだ日本版オリジナルの短編集。
「そのとき俺が何て言ったか」
少女がカラオケボックスにいると、入ってきたのはそこの経営者。
彼は「心をこめて歌え」と少女に言い、理不尽な暴力をふるう。
暴力というものは、そもそも理不尽なものと言わんばかりの、怖い話。
「海満(へまん)」
会社をやめた男が、手に入った大金で「海満」という島に、ゆっくり滞在しようと渡る。
そこの民宿で相客になった、無気力で無為に過ごす男たちとの、まじめな言葉のやり取り。
無気力にならざるをえない若者に対するシンパシーを感じる。
僕も、こんなところで無為に過ごしたくなる。
登場人物のなかでいえば、酒を飲みつづける男。
一緒に借りてきた、「幽玄F」の佐藤究の「QJKJQ」も少し読んでみる。
江戸川乱歩賞を受賞した作品。
冒頭から、残酷な殺しの場面、ドラキュラ一家のような家族の話に、いささか辟易して、散歩に出て、図書館で、佐藤究の直木賞受賞作「テスカトリポカ」を借りてくる。
映画を見に行く暇を自分でなくしている。
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ふるまひをやさしく。幽玄に心をとめよ
http://pinhukuro.exblog.jp/30843977/
2024-03-07T13:07:00+09:00
2024-03-07T13:50:28+09:00
2024-03-07T13:07:13+09:00
saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
なぜ「介護の必要な人」と言わないのだろう。
テレビで少子化対策について侃々諤々、前にも書いたことがあるけれど、経済的な対策も必要だろうが、なんといっても、未来に希望のある社会であることが必須の条件だろう。
裏金を作って、追及されても平気の平左で居座り続けるような反社会的・無能破廉恥集団が治めているような国にそれは望むべくもない。
こんな中学生程度の人が、世襲と派閥の推しで少子化担当大臣になっているのだもの。
「ポンコツすぎる」加藤鮎子こども相「異次元の少子化対策」めぐり野党があきれる“しどろもどろ答弁”に批判殺到(SmartFLASH)
子供だまし庁。 https://t.co/Flea1Um3Z5— CLE︎︎︎︎︎︎ (@CLE_copen) March 6, 2024
文科教育を無用のものとし、理科系、そのなかでもすぐに役に立つ、実用の学問を偏重することも、薄っぺらな社会をつくる要因になっているのではないか。
貧しくても、力を合わせてよりよい社会をつくること、たとえば図書館で借りた本で未知の世界を知る喜びや言葉が紡ぎだす美しさや悲哀に感動すること、身の回りの自然の移ろいの中に生きとし生けるものの美しさを見てとること、、そういう心の持ち方によって、人生は生きるに値するものになる。
そういうふうに考える親が少なくなって、もっと旨いものを、楽しいことを、人より楽をするように、人よりいい服を着よう、、つねに他人との比較をして、際限のない欲望に囚われて、ほんとの生甲斐とは何か、について考えようともしない親が増えてはいないだろうか。
そんな社会が、家事労働を嫌い、育児の苦労を厭い、、その結果が少子化につながっているのではないか。
「幽玄 F」(佐藤 究)、読了。
直木賞受賞後、編集者から「三島由紀夫をモチーフに」という依頼を受けて、「天人五衰」(三島由紀夫・豊饒の海・第四巻)の遺稿を受け取った小島千加子に取材したり、三島による超音速戦闘機の搭乗体験記「F104」の初出データを、「あたかもコックピットに配置された計器を見るように、つねに意識して」、二年がかりで書いたという。
子供のころから、ひたすら飛行機に魅せられて、自衛隊の最新鋭のF-35Bのパイロットになり、天才とよばれる易永透、その名は「天人五衰」の主人公・安永透を思わせる。
彼の搭乗場面は、映画「トップガン」のそれよりも迫力を感じさせ哲学的である。
飛行機に乗るために自衛隊に入ったので、真言宗の祖父のいう「護国」については知らなかった透は、護国の意味を考えつづける。
重力との戦い、それは陀羅尼経における孔雀明王と蛇との戦いに通じるのかもしれない。
マッハ1・3になった時、巨大で透明な蛇が現れて、透は自衛隊を辞める。
タイの航空スクール、そのあとはパングラデイシュのローカル航空会社で仕事をする。
行動右翼らしきキドの言葉、「国ってのは、放っておくと腐り、その腐敗が国旗をどす黒く染める。その穢れを、繰り返し繰り返し祓うのは、義による。義の行動は水平ではなく、垂直的なのだ」。
水平的とは、国家でたとえるなら、延々とつづく領土の奪い合い、国家も、政治も、法律も、経済も、戦争も、どいつもこいつも終わりのない領土争奪戦だ。水平線の彼方で沈まない夕日みたいに、人間の欲の皮が燃えつづけているんだ。ずっと夕方がつづいて、夜の闇もおとずれなければ、朝日がのぼることもない。そういう水平的世界観から出てゆくのが、垂直的な義だよ。透は、キドが思ったより若く、その澄んだまなざしは、精神の強さではなく、内に巣食った恐怖が発露しないほどの純粋さに由来していることを見てとり、俺も同じ目をしているのだろうか、と思うのだった。
鎮護国家とは、仏が姿を変えた明王が、霊験によって敵を調伏すること。
俺にとっての敵は何か?
透は、自分には敵の概念が欠けていることに気づく。
自分にしっくりくるのは独立と言う言葉だ。
その独立はなにからの?
力だ、俺が欲したのは、空を切り裂くあの力だ。
パングラデイシュの奥地で、透は日本人の老僧に出遭う。
蛇について話しているうちに、老僧はウロボロスの蛇のことに触れ、円の回転、時間の蛇という言葉を発する。
そして、どのようにして時間と向き合うのかについて、室町の人・心敬の書いた「心敬僧都庭訓」の冒頭の言葉を教えるのだ。
それは、
心もち肝要にて候。常に飛花落葉を見ても。草木の露をなかめても。此世の夢まほろしの心を思ひとり。ふるまひをやさしく。幽玄に心をとめよ。短い切れ味の良い文章の連続に、あっという間に、読んでしまったが、読み終えて、さて、どういうことだ、と分からない、とくに結末が。
いま、こうしてブログに書くために、いくつかの叙述を追いかけてみて、ようやく朧げに見えてきた。
さっき、このブログの枕で書いたことにも通じているのだ。
いや、この小説を読んだから、それが内心に影響してブログのマクラになったのかもしれない。
半世紀も前に、すべて初刊本で読んだ「豊饒の海」や「金閣寺」を、そのイメージを少し思い出した。
処分してしまった「豊饒の海」も再読を催促しているようだ。
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同病相憐れむ
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2024-03-05T10:29:00+09:00
2024-03-05T10:29:17+09:00
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saheizi-inokori
今週の1冊、又は2・3冊
「VIVANT」が長くて、いつものルーテインの順番が狂ったので、忘れたのだ。
けさ、反省とともに起きて朝の測定をすべく血圧手帳を開いたら、なんとゆうべの夜の欄がうまっている。
いつもより高い138と80、どういうボケだろう。
昼は皮膚科、大学病院の部長医師だから、ときどき見習の医師が見学している。
きのうは先輩格の男性が、アシスタント役をつとめてパソコンに入力したり、短い発言もして、その隣にもうひとり若い女性がかしこまっていた。
医師の着る白いユニフオームではなく、なんとなく初々しい。
そうすると、服を脱いで背中や足を見せるのが、ちょっと恥かしいではないか。
二年ほど前に、いちばんひどい症状のころ、服を脱ぐとパラパラと皮膚のかけらが落ちるほどで、それを数人の若い人たちが見て「わあ~っ」と驚いた。
特異な症状を見せてやろうということだったのだろう。
僕も医学に貢献しているのだから、はやく治療法を見つけてほしいものだ。
それでも、やっとステロイドから脱出できた。
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(京都 藤菜美 ほろり)
「女刑事の死」(ロス・トーマス)読了。
ときどき置いていかれそうになるようなひねったプロットの展開。
脇道とも思える細部を楽しむことのできる作品だ。
アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞受賞。
この作家、1995年に69歳で亡くなった。
「黄昏にマックの店で」「神が忘れた町」「五百万ドルの迷宮」などは読んだことがある。
藤本和子 訳
早川書房
ここまで書いて、待てよ、ロス・トーマスのなんかエッセイみたいのを読んだはずだと、このブログを検索したら、なんとなんと!
なにが、既読感がない、だ。
いよいよもって、広告のホンを読まなきゃ!]]>
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