朝日新聞は無垢でも無辜でもなさそうだ 高島俊男「お言葉ですが・・漢字語源の筋違い」
2009年 03月 15日
パンパンッ、って、あちこちから畳を叩く気持のよい音がした。
藁を焼いて新しい灰をつくる。
一日働いた夕方炬燵に火を入れるとなんだか特別な好い匂いがして嬉しかったなあ。
その畳のことじゃなくて、その下に敷いてあった新聞のことだ。
それを取り替えるのだ。
湿った古い新聞紙を取り替えるのだが、そこが関所。
DDT(殺虫剤)の下から古い記事が顔を見せると、ついつい読んでしまう。
というわけで(どんなわけ?)、先日から少しづつやっている部屋の模様替えで、本をあっちへ持って行き、こっちで処分し、をやっているとついつい読んでしまう。
それで今日読みふけってしまったのがこの本。
週刊文春に連載されたものを集めている、その7冊目。
中ほどにある「むくの人びと?」という文章。
2001年9月17日、朝日新聞の「アメリカ総局長それがし」なる署名記事に「復しゅうによって別のむくの人々の生活を壊すようなことはしたくない」とあったのに対して、小平市のSさんという読者が「無辜のまちがいではないか。やたらに漢字を避けるからこういうことになる」という手紙を朝日に出した。
そうしたら校閲部から返事が来て、一読、あまりのひどさに腹を立ててバリバリと破ったが思い直してまたつないで、高島先生に送ってきた。
本書では全文載せてあるが、ようするに
[INNOCENT]=「無垢の」という翻訳で使った言葉だから間違いではない。と開き直りとも弁解とも、まったく意味をなさない返事だ。
「無辜の」としても良かった場面ではありますが。
漢字を使うべきとのご意見もあるが、新聞は中学生程度でも読みこなせる文字を使おうとこころがけている。
いましばらく、温かい目で見守っていただければ幸いです。
校閲部・M某の署名入り返事。
英語のINNOCENTに二つの意味があるとしても日本語の無辜と無垢ではまるで意味が違う。
総局長殿は日本人で日本語で原稿を書いている。
INNOCENTが入り込む余地はない。
朝日は高島先生に好いネタを提供したと云うもんだ。
「復しゅう」も当然血祭りにあげられる。
社内の人がわけのわからない文章を書いたのなら遠慮なく「罪のない人々」とか「しかえし(復しゅう)」のように“中学生程度でも読みこなせる言葉(文字ではなく)”にすべきだと指摘される。
あげくの果てに
まあこのアメリカ総局長さんも、かなり程度の低い人ではあるようだ。M氏はこの愚かな上役を守るためにINNOCENTの手品なんぞを思いついたのかもしれない。守ったはずの上役までやられちゃった。
読んでいて既視感に襲われたので、この本は読み終わった本かと思ったが、他の文章は初めて読むようでもある。
ちょっと考えているうちに思いだした。
俺も同じようなことがあったのだ。
「私淑する」、だ。
良く使われる言葉だが誤用が多い。
新明解によれば「直接教えを受ける機会のなかった学者・宗教家・作家などを自分の先生として尊敬し、その言動にならって修養すること」。
それを、いつも直接教えて貰っている先生などに使う人が圧倒的に多い。
別に俺の腹が痛むわけでもないから、いつもはほっとくのだが、たまたま朝日の学芸欄に朝日の学芸部長のような肩書きの人の文章が載っていた中に、もろにその誤用があった。
暇だったからか虫の居所が良かったからか、俺も手紙を書いたのだ。
そして、その返事が、やはり校閲部の某さんの署名で見事に答えになっていない。
ようするに間違っちゃいない、という強弁だった。
俺もバリバリと破いたのは同じだが、そのまま捨ててしまったところが小平市のSさんとの違い。
これは手紙を書いたわけではないけれど「檄を飛ばす」、これも誤用の方が今や多数派ではないだろうか。
同じく新明解にお出ましを願うと「人々を奮いたたせて、積極的な行動をとるように勧める文書を書いて、決起を促したりする。」とあり、そのあとにわざわざ「俗に激励の意で用いるのは全くの誤り」と付け加えてある。
もう、気にもならない。
全然いいもんネ。
文藝春秋刊
いま問題になっている、財団法人・日本漢字能力検定協会への痛烈な批判は当然として、口語文が主体をなしている現代文体が、文語文を混同したりと、歯牙にもかけない”ご立腹”ぶりです。
朝日新聞の人はきっと「こう顔」なのでしょう。
この無自覚かつ根拠のない強気、男性の記者や編集者に多いんです。
そういう人のメールの文章のひどさときたら、へそが茶をわかします。
上から見下した失礼な書き方、ひどい文体、品のなさ、中身のなさ、まるで政治家の答弁みたいで、彼らは同じ人種なのだろうと思う事しばしば。
こういうのにつきあうのは時間のムダなのでやはり
>もう、気にもならない、全然いいもんネ、と思います。
たとえば、「馬鹿」という言葉の本来の意味も、「狼藉を働く」という意味らしく、室町時代に書かれた「太平記」には、確かにそういう意味で使われていたそうなのですが、日本語って難しいです。
やはりそれ以前に言葉の意味をまちがえるのは右を左というようなものですから、、。
文春4月号、やっぱり買わなくちゃならないかな。
もっとも毎週「今週の国語教室」みたいなコラムをつくって自分の紙面の間違い言葉を紹介する。そのネタは読者から募集して優秀作には賞品をだす、なんて面白そうです。
間違うのは誰でも、それこそ総理でもあることです。
それをもっと明るく気楽に指摘し合う、認めて直すということになれば国語の水準もあがるのではないでしょうか。
そういう姿勢がないから“無垢でも無辜でもない”と思うのですよ。
今や全然が肯定的に使われても全然大丈夫です^^。言葉の使い方が時代とともに変化していくというのと、今現在明らかに語法が間違っているのに新聞社の幹部たちがそれを直そうとしないのはまるで違う問題だと思いますよ。
やはり彼らはぎりぎりまで正しい言葉使いを守る立場にあるべきでしょう。
「すべからく」など、自分の身に付いていない言葉は使わないようにしています。そうすると、どうも語彙が増えず、賢そうに見せるのができないのが難点です (笑)。
それをしない朝日はたしかに「こう顔」ですね。
紅顔の美少年ならぬ。
「べっ視」と「蔑視」のことを表記するのもよくありますが、ひどいですよね。
顕彰なんて難しい言葉を使うのですからある程度レベルの高い人たちが多かったのではないでしょうか。えてしてそういう方が背伸びした言葉使いをしますね。
政治家がよく使う「粛々と」なんて永田町だけの言葉かもしれません^^。
国語に対して責任があるはずの新聞社のしかも校閲の仕事をする人が保身と正しい国語をはかりにかけて保身を取ったことが一番問題。
こういう人がその部下たちの無自覚・無知な若者の間違いをなおすこともなく、かくて間違いだらけの日本語の拡大再生産になるのではないでしょうか。
こうなると無恥・無責任というべきでしょう。
の非を全く認めていなかったと記憶しています。ところで「檄を飛ばす」でが、
電子辞書の広辞苑には第2の意味として、「また、元気のない者に刺激を与
えて元気づける」とあります。信頼していた広辞苑でしたが近頃は批判もあるようですね。
そうするとそれを記載するのも辞書編集者の仕事のうちと考えるのでしょう。
「本来は、、、意味だったが誤って使われるうちに定着した」みたいな註があるといいのですが。
それとどういう状態になったときに語の意味として取り上げるかが見識を問われそうです。
私は新明解のように「誤用」として取り上げるのが正解だと思うのですが。
よく見る軍鶏だなぁと思ったら.....、
佐平次さんも見つけて手紙を出したなんて、よく見つけるものとそのことに感心しました。
新聞社ってそんなものなのですね。言い訳も上手なのですね。
お部屋の模様替えですか。新鮮な気持ちになれていいものですね。
農大は楽しそう。
言葉にも歴史があるんだとおもいました。
それでも投書なんて普段はしないのにあの時は妙に血が騒いだのです^^。
机をちょっと大きくしたりソフアベッドを取り替えたり、本棚も買えて、、結構大騒ぎ疲れました。
気分転換で農大に行ったのです。
尤も、高齢の方に多い「最近の若い者は……」は逆に若者を反発させている傾向があるような気がします。
したがって、多数決といっても「一票の重み」は壮大に異なり、またそれは当然のことです。
これを「多数決」と呼べるかというのも怪しいですが。
もうひとつはメディアの影響。
「誰」と一言では解決できず、まさに「バタフライ効果」です。
考えを整理したり、人に伝えるのが言葉の大事な機能です。それがあやふやだったり間違っているのは料理の食材や調味料を間違えてしまうようなもので作りたい、たべたい料理とは違うものが出来てしまう。
檄を飛ばす対象は目の前にいないのに、今の間違った使い方では目の前にいる人が対象になってしまう。
いくら多くの人が間違っているからと云って間違いであることには変わりはない。
すなわち多数決はおかしいと思います。
相手さんと自分で違っては困りますものね。
私自身もそのため使い分けています。
でも、最近これが億劫になってきているのが事実です。
あと、間違いの定義が何かということです。
もし言語が人に伝えることに障害がなければ、間違いでなくなる。
これでは「間違い」というのは何かわからなくなります。
他の人が聴くと反対に聞こえるような言葉づかいをして喜んでいる。
仲間うちだけで世の中が出来ていればいいのですがね。
国際的な事柄にはそういうことから発生する悲劇が多いのではないでしょうか。日本人には当たり前のことがアメリカや中国、韓国、、ではとんでもないことだったリ、、その逆も。
やはりきちんと言葉の定義をしてかからないと危険でお互いの不幸になります。
業界言葉とかテレビのお笑いタレントが知っている人だけに通じる言葉で盛り上がるのもある種の逃避的な要素もありそうです。
結局それも失敗しました。(?)
プログラミング用語は人工的な言葉です。
あと、ハングル文字もです。
でも、その意味となるとねえ……。
同じ文章でもひらがなで書くのと漢字で書くのでは随分感じが違いますよね。
漢字は読めなくても意味が推測できることがあります。
だから「恐れる」と「畏れる」では私は違って受け取ります。でも違いを感じない人もいます。
言葉の厄介さであり面白さです。
それはコミュニケーションの宿命でもあると思います。