靖国はデイズニーランドだった!?「靖国」 坪内 祐三 (新潮文庫)


歴史的大勝のなかで小泉さんの”適時適切”はどうなるんだろう。靖国公式参拝は1985年8月15日の中曽根総理が最初とされ『人民日報』がそれを批判して今に至る。しかし、実際は1951年吉田総理に始まり、以後田中角栄まで毎年行われていた。ただし8月15日ではなく春秋の例大祭の日だった。当時の宮司は中曽根の訪問(”祓いを受けない”ことを明言して来たのだから参拝とは言えない)に怒り自分は挨拶にも出ないと官房長官に通告する。4人ものボデイーガードを連れてきた中曽根にはあいた口がふさがらない。
うちの神様方というのはみんな手足四散して戦場で亡くなった方が大部分です。そこへ参拝するのに自分の身の安全をはかるため4人もぴったりボデイーガードをつけるなんていうのは、無礼・非礼のきわみというほかありません。


8月15日は靖国神社にとって何の意味もない日なのだ。更に靖国は幕末の尊王攘夷の志士たちの霊を招魂し、祀るために創ったものだ。(会津藩の戦死者は、蛤御門の変で亡くなった人は祀られるが戊辰戦争の死者は”賊軍”だから祀られない。)このたびの大戦の死者ばかりが祀られているのではない。中曽根のスタンドプレーと、それを奇貨として外交上の駆け引きに使おうとした中国・日本のなかの左右の政治・言論陣営の思惑によって本来の靖国の姿は捻じ曲げられてある種のシンボル化してしまった。

著者は靖国創設から今に至る歴史を調べる。単に事実を並べていくのではなく靖国が、幕末から近代国家として変わっていくときにどのような役割を演じてきたか、江戸から東京へと変わるなかで市民にどのような場所として受け入れられて来たかを検証する。小説、図画、証言、古文書、イベントや建物の歴史、芸術活動・・広く史料を漁り”人々の心に受けとめられた靖国”の歴史を明らかにする。

中沢新一の『アースダイバー』にも記されていたように九段は、その頃から分化しつつあった成り上がりものたちの住む”山手”と落ちこぼれていった江戸っ子たちの”下町”の境であり坂の上から設立者である大村益次郎は下町をみはるかしていた。

靖国はデイズニーランドだった!?「靖国」 坪内 祐三 (新潮文庫)_e0016828_12583243.jpg

そして下町に住む人々もまた大村益次郎の銅像を歓迎し靖国に娯楽を求めた。

競馬、勧工場、きらびやかな式典、展覧会、奉納相撲・・。
なんと大正10年にアメリカのレスラーと日本の柔道の試合が境内で行われる。その後国籍ゆえに(?)関脇で引退をした力道山が小人のプロレスを含めたプロレス興行を奉納し大相撲より多くの人を集める。そういえば、これも”外人”ゆえに横綱になれない、しかも真珠湾のあるハワイ出身の小錦が靖国の奉納相撲で結びの一番を勤めたのは平成4年のことだ。
更に、戦後直ぐに靖国に音楽堂、博物館、国技館、映画館、マーケットなどの建設が計画されて石毛組に発注までされているが新聞のスクープにより完成にいたらなかった。

靖国はデイズニーランドだった!?「靖国」 坪内 祐三 (新潮文庫)_e0016828_12473259.jpg

しかし、なんといっても靖国は近代国家・中央集権国家日本の統合に欠かせない役割を果たした。特に西南戦争がそのエポック。地方に点在していた招魂社を中央にまとめる。地方的なものの切り離し。歴史の連続と断絶が靖国によってなされる。生き神である天皇が参拝してくださる光栄!徴兵と戦争へのモチベーション。新しい神話の創造だ。
神話の誕生には矛盾がつきもの。あまりにも偏った靖国像をもう一度きちんと見直すことがアノ喧騒・呪縛から自由になるためにも必要なのではないか。著者も最後にある提案をしている。アメリカ人にとってデイズニーランドは”聖地”なのだという。サヨウしからば・・。
まあ、そんなことを考えなくても十分に面白い東京物語ではあるのだが。

名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by saheizi-inokori | 2005-09-12 12:59 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori