康夫ちゃんは熊さんか八つあんか 喜多八の「粗忽長屋」はよかったぜ
2008年 09月 02日
なんだい?って訊いたらイキダオレだって言うんで人の股ぐらぁくぐって見に行ったら、生きちゃいない、死んでるじゃねえか。
そのシニダオレを見たら、
生まれて来たときは別々だったが死んでいく時も別々の親友・熊さんじゃねえか!
こりゃ大変、ハッツあん、「当人に知らせてくらア」と長屋に駆け戻る。
熊さんに
こんなところでのんびりしている場合じゃない。おめえ、死んじゃったんだぞ。自分の死体を引き取りに行かねえと、誰かが持ってちゃうぞ!ってえと
どうも、俺は死んだような心持がしねえという熊。
おめえ、なにか?今までに死んだことがあるってのか、なくっちゃ死ぬ心持なんかワカラネエのは当たりめェだ納得させて行き倒れのところに連れて戻るのだ。
ハッツあんは自分の云ってることの正しさを毫も疑っていない。
呆れる他人の理性的な疑問提起をものともしない。
町の世話役が
お友だちに朝会った?じゃあ、人違いだ。この行き倒れはユンベからあったんだからってのに
そういう奴なんすよ。自分が行き倒れているのに気がつかねえで家に帰ってきちゃうんだから、ったく、そそっかしい。
主体性のない熊はハッツあんの云うことに納得してしまう。
笑いながら聴いている俺もなんとなく八五郎ワールドに引き込まれてしまう。
この噺は八五郎の喋りにそういう感覚をちゃんと持たせることができるか、が勝負じゃないだろうか。
いかにもいい加減なオッチョコチョイであったり、ノータリンの白昼夢みたいなシャベリではつまらない。
非現実そのものだが八っツあんと熊さんのやりとりはリアル、二人は大真面目。
喜多八は好い。
インテリヤクザとでもいうか、伝法だがどこかに理性的な陰があって、しかも小粋。
歯切れが良くて渋い声。
他の噺家の八五郎とはちょっと違った味がある。
”間”、テンポが俺にぴったりだ。
それにしても、八五郎みたいなヤツ、結構多くないですか?
思い込んだら論理も何もありゃしない、信じない他人が間違ってるとばかりに自己流のリクツを振り回して迫るヤツ。
そしてそれに唯々諾々とついていくヤツ、熊五郎のように、も多いんだなあ。
俺は八か熊か?
オザワクンにいじめられたからと泣きべそかいて帰って来ちゃった康夫ちゃんと晋ちゃん、あんたがたはどっちだい?
純ちゃんがいいって言ってた皆はこりゃもう熊さんだ。
まるでジャイアンだな。
そうするとやっちゃんとしんちゃんはのび太かー。
二人ともドラえもんいなかったのかな・・・押入れに。
熊さんが、とある秋祭りのカーバイト灯明の露天でその店主相手に困難な交渉の末、栗の苗木を思いっきり「値切って」買うことに成功し、ホクホクして自宅に戻り、根巻きの新聞紙をはがすと、まさに「根切りの苗」、ただの栗の穂先だけの束だった・・・とさ。
私が幼い頃に母が実際に犯した笑えぬ後悔の1コマでした。
栗とか柿には懐かしい子どもの頃の思い出がたくさんあります。田舎に育った幸せを感じます。
殿さまとか大岡越前くらいか、赤井御門守なんて政治家っていえるのかなあ^^。
選んだ人たちは粛々と、いやバタバタと次の遊び相手・餓鬼大将選び、与太郎ほど人が良くもないし。
落語の国には住めない人たちです。
しかし国家のトップにあるものは真似すべからざる前例を見て自分ならと思って宰相になったのだから自分では違うと言うが第三者が見て同じ行為をするとは・・・。
常識人は限界を感じ己の良心に従うのが正しいと考えるが縦横斜めから見る器のないものは責任ある地位には着いてもらっては困ると言う事です。
そういう人を総理に選んだ政治家は言うに及ばず。そういう政治家を選んだ国民はひどいもんだと思います。
だから隠居なんかになるのは許せないですよ。