大塚英志「護憲派の語る『改憲』論ー日本国憲法の『正しい』変え方」(角川ONEテーマ21)
2008年 08月 06日
「長い歴史の上に勝ち取られたともいえる選挙権なんだからよく考えて投票しないとネ」、訓戒を垂れる梟でありました。
誰であれ、支持率90パーセントなんて民主主義じゃないと思うのです。
”サヨク”護憲論者である大塚がこの本で云っていることは国民投票法により改憲に賛成するにしても“考えなし”にするなよ、ってこと。
近代は“個”の確立と、その反対側の“他者”の存在を認めること。
それは言葉による相互理解が必要になる。
さらにそういう他者とともに生きていく”社会”についての合意が必要になるし、そういう社会を創る責任を果たすこと。
責任を果たすとともに社会(国)には憲法で定められている義務が履行されるように求めていく権利と義務がある。
憲法に決められている国や公務員の義務が果たされてもいない。
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利は?
公務員は全体の奉仕者になっているのか?
年金記録がなくなったってことは憲法に照らしてもおかしいのではないか。
社会福祉の金を削ってオリンピックに回すって?
それを糾弾もせずにワンフレーズや見た目で投票したりなんとなく改憲に賛成してしまっていいのか?
古臭くなって時代に合わないことを改憲の理由にあげるならどの条文がどのように護られて、又は護られなくて時代にあわないというのか?
護るための努力は国民、国によって十分になされたと言えるのか?
自分だけの利益・快楽・安寧だけを求めてあたかもひとりで生きているように振るまい弱者には”自己責任”を押しつけているのは近代的個人の生き方とは反対の生き方だ。
動物であることと近代的な個人であること。その二つの葛藤の中で、よりマシなほうに社会を進めていく、というのがリアルな近代の在り方ですよね。そこで努力目標としての「近代的個人」というのをなしにするのはまずい。保険とは掛けた保険料を回収するってことではなくて今余裕のある人が無い人にお金を回すってことだ(それを理解することが近代的個人なのだ)。
だからこそ、憲法は徹底して理念的でなければいけない。(略)憲法の本質とは、私益を追求してしまう動物的な人間の現実を超えようとするところにあり、しかも、それは単に理念的なのではなくて、いわば他者とのリアルな関係を強いられる中で獲得された理念だからです。つまり憲法って「動物化」を阻止するためにある、ともいえます。
その意味で、現実に妥協する改憲なんてあり得ないわけです。
でも、近代的個人形成途上の市民としては、普段は出来るだけ掛け金が少ない方がいいくらいにしか考えていない。
けれど国民年金記録紛失ってのは俺にも関係するかもしれない、それなら選挙の争点は憲法より年金問題だ!
福祉に回す金が減って人が苦しみ、死んでいたって、俺の問題じゃない。
それよりもオリンピックの方が面白そうだ。
こういう姿勢には”私”しかない。
他者の存在(違いがありながらも平等な存在としての、それを相互に理解し合うべき存在)がなくなっている。
著者は「憲法の前文を自分で書いてみよう」という運動を提唱、中高生に対して5年間実行してきた。
その“自分たちの憲法改正案”が巻末に載っている。
自分で書く過程で、私→他者→みんな、という近代社会の成り立ちがその子の中で自然に調和のとれた姿で理解されていくそうだ。
考えを書いて発表することが責任感にもつながってその後の人生での生き方にもかかわっていくようだ。
国に求めることは間違ってはいない。
いわば憲法は国の義務を明記して国を縛るものだから(だから憲法を変えたいっていう人もいる)、それが実行されていないのなら国に求めるべきだ。
しかし、国を造りあげて国の主人公となっているのは国民・俺たちだ。
だから国に求めるということはそれなりに俺たちも学び行動し義務を果たさなきゃならないってこと。
当り前のことが書いてある本だ。
その当たり前のことが、何だかアナクロ(フアッショナブルじゃない)にもシュール(新鮮)にも聞こえるのが今の危うさだと思う。
こういうところに絵を描くという、ある意味贅沢な意匠が
あちこちにあったのですよね。
落語の「付け馬」で朝の銭湯に入るところが出てきアンスが、この風呂かなあなどと思うくらいです。
亡き義母も原爆手帳を所持する一人。
ヒロシマも終戦も知らない自分ながら、妻にもしっかりその遺伝子が承継され、息子、娘にもしっかり潜在しているのですネ。
せめて風化、酸化する前に、しっかりと伝えたいものと思います。
死文化させてしまうような法律はさっさと変えないと、文化自体が腐ってしまうような気もしています。
まさに風化ですね。
原爆が落とされて信じられない数の人びとがなくなり生きても後遺症に苦しんでいるという事実には何にも変わりはないのに。
憲法に対する議論(まともな議論がないけれど)もなんとなく変っていった。なんとなく自衛隊もあるんだし、、もう古臭いかなと改憲をよしとする人が増えてきたような気がします。”考えなし”に。
左翼も護憲というのみででは非武装中立に向けてもう一度戦線を構築するのか?そのあたりはご都合主義のようにも思えます。政権がちらちらしてくるとなおさら基本論がうやむやにされていくような。
憲法の必要を認められるなら”もっと高い次元の規律”との兼ね合いはどうするのですか。
法律ではあまり何も決めないで武士の葉隠れのような倫理で世の中を動かしていく?
確かにどんな立派な法律を創っても守る人がいなければ死文化してしまいますね。
その時現実に合わせて憲法を低い倫理のものにしてはいけない。憲法の定めている生存権や公務員の義務がなぜ護られていないか、公務員の倫理観がめちゃくちゃだからと云ってそっちに憲法を変えるんじゃ盗人に追い銭?
本書はそんなことを言っているようです。私も同感です。
憲法を変えるにしても具体的な議論がなくてはいけないということかもしれません。
「もっと落ち着いてゆっくり考えよう」などと書いた小学生もいましたよ。
憲法が汚れた現実の後追いをしているのでは憲法たる意味がないと思います。
第9条については私も確たる信念を持てないのですが、本当に非武装中立は非現実なのか、最近かえってそれが現実味を帯びてきたような気がするのです。
少なくともイラク派兵を後方支援と言うインチキに止めたのではないか、そうでなければドンパチやってきたかもしれない。
それは国際社会からみるとズルイのでしょうか。
でて直ぐに美味しい焼き鳥やもあるし、グーッと^^。
とんでもない法を通してくれたものだと思っています。
以下は、旧詠からですが。
070503日々歌う
政府をば縛りて民のしあはせを図るためにぞ憲法のある
060829日々歌う
政府への民のしばりが憲法と思はぬ者ら改憲をいふ
国家とはわれらのことと思ひなす<エリート>唾棄す現憲法を
強力にリードさるるを待ち望む怯懦のこころ民を蝕む
物腰で民を欺く者勝ちてつひに解かむか民のしばりを
<右><左>問はずに民のしばりをば軽んずる者 国を誤る
時代とともに変わっていいことといけないことがあるはずなのに。
なんだかとんちんかんな返信でごめんなさい。
とんでもない勘違いをしている“エリート”、それをよしとする国民、時間はかかっても戦線再構築しなければならないように思います。
この憲法が公布されたときのニッポンでは「第9条」は肌で感じる現実でしたよ。
手段や状況はどうあれ戦争を生き延びた者とすれば、戦争さえなければ戦争に殺されない!その一念!
正しい戦争:オレたちを巻き込まない戦争。
間違った戦争:オレたちを巻き込む戦争
これが朝鮮戦争中も維持された日本国民の思想。
ブログ本文も皆さんのコメントも素晴らしいですね。元気づけられます。