ゲットーに木はあったのか? ユーレク・ベッカー「ほらふきヤーコプ」(同学社)
2008年 07月 14日
明日、世界が開高健が書いていた言葉が好きだ。
滅びるとしても
今日、あなたは
リンゴの木を植える
ナチスの設けたゲットーでは飢えと恐怖、寒さへの不安が極限状態だったそうだ。
ある意味ではそれ以上にナチスの悪魔性を明らかにしているのは
つまりあのゲットーというところでは木が禁じられていたからなんだ。いかなる種類の観賞植物、有用植物といえども、これを禁ず。
ユダヤ人を絶滅する。
殺せばいい、しかしそれだけではない。
労働力として利用出来る間は利用する。
そしてその間、人間らしく生きることは許さない、そういうことに役立ついかなるものも存在を許さないというのがナチスの考え方であった。
そのようなゲットーでの物語りだ。
生きていく上での希望を打ち砕かれ一輪の花に慰めを求めることも許されず、いつ自分にもやってくるかも分からない死と隣りあわせ(片づけるのが遅れた仲間の死体をまたぐこともあった)のゲットー。
この小説ではゲットーといえば直ぐに予想される様々な悲惨・残虐を正面から取り上げない。
むしろ人びとの生活はある種の平穏のうちに進行しているかのようにすら描かれる。
乾いた、苦いユーモアが通奏低音だ。
たとえば、待ちわびた昼食のとき
おれたちは一列に並ぶ、よく統制がとれていて押し合いへしあいなどまったく見られない。飯を食わさんぞと脅されて教え込まれたものだ。まだ食欲がわかんなあ、というように見せねばならない、また飯か、まだろくすっぽ仕事もしておらんのに、もう飯で中断かい、とでもいいたそうな顔をしていないといけないのだ。ミーシャが恋人・ローザの家に初めて遊びに行ったときの父親の様子
いっぱいに写真を貼った分厚いアルバムを見せたそうだ。今の自分の与える印象があまりいいものではないことをよく知っていて、それに甘んじていることができなかったからだ。口にはパイプなぞくわえている、海泡石のパイプだよ、タバコの味などとっくの昔に忘れたパイプだ。
ある意味で色彩感・現実感を失った、悪夢の中のスローモーションな人びとを見ているような、SFにでてきそうな不思議な世界だ。
無表情に、あたかも瑣末な、当然至極のことのようにぼそっと描かれる、死とか死を意味する呼び出しなどもよくよく感情移入をしなければ順番待ちの病院ロビーでの呼び出しをきいているようだ。
そういう不思議な世界に、しかし、人びとは希望にすがって生きていこうとする。
一本の木が欲しいのだ。
ほらふきヤーコプはなぜホラをふき続けたか?
ヤーコプには何ひとつ木を思わせるところはないんだよ。だけど”毎日何分かはもたれたくなる”大木のような奴だった。
ずるくて、やさしくて、卑怯で、雄雄しくて、、ポーランドの村のユダヤ人たちが愛おしい。
8歳のリーナ、3年前に両親は突然貨物列車に乗せられて遠いところに行ってしまった。
中庭で遊んでいるリーナに気がつかれないように足音を殺して別れを告げた。
可愛いリーナに見つめられると、最後の一口はこの子と半分わけしようかな、という気になってしまうが、実際にそうしてくれるのはヤーコプだけなのだ。
読んでいるうちにその世界に引き込まれていく。
一人ひとりのユダヤ人が生きて体臭を感じさせる。
あっというまに消えてしまうのだが。
昨日読み終わって今日、ますます人びとが俺の心の中に生きているようだ。
ドアの陰からリーナがイタズラっぽい目つきでこっちをみていやしないか。
外を見たらミーシャがローザの家に急ぐ後姿が見えるかもしれない。
工場から早帰りを認められたからと行って喜んで帰ってはいけない、貨物列車に乗せられるんだからと知らせるために急いでいるミーシャ。
ヤーコプの木は幻だったのか?
俺はそうは思わない。
フランクルの「夜と霧」の記事に freitag さんからコメントを頂いた中に紹介されていた本。
いい本を教えていただきました。
山根 宏・訳
常に知的格闘をしているユダヤ人が歴史のるつぼの中に放り込まれる。何かを生み出さずにはおれないのでしょう。
ドイツ人じゃないのかな。原作はドイツ語のようです。
ユダヤ人たちが経験した修羅場は私などには到底理解できません。
こういう小説の部分部分の“感覚がついていける”ところににぐっときているだけです。
総体としての悲劇は捉えようがありません。
この樹も、歴史に伴う倒木の危険から、アムステルダム当局により昨年暮れに惜しまれて伐採されたのだとか・・・。
昨日帰って来ました。
夜はかなり涼しく感じましたが、標高の高い場所だったので涼しかったところから帰って、これから日中の蒸し暑いと言われている中で、溜まった仕事をこれからこなせるのかと
心配しています。^^
ユダヤ人の方々のお話を伺うたびに、自分では理解しようとはしても、その場を体験した人の気持を本当に理解はできないであろう自分が、感想や同情などは先ず口にはできないなと感じています。静かに黙祷をささげるだけです。
その情景がゲットーに木のなかった事をもう一度強く想起させ主人公・ヤーコプの木としての英雄的役割を認識させます。
というより滑稽にすら描かれていたヤーコプの役割の意味をクローズアップするのです。
ずっとこちらにいいてもいい加減参りそうです。どうかお大事に、無理をしないで。
私もユダヤのことになると小説しか分かりませんが身の回りの人びとのことは手が届くわけで少しでも力になれればいいなあと思っています。
思っているだけかもしれませんが。
その作業で得た知識に基づき、
http://pinhukuro.exblog.jp/8176611/に
キリスト教世界はなぜ「ユダヤ民族」を「世界共通の敵」に選んだか。
ヒトラーはそれをそのまま「拝借」しましたがUSSR、そしてミロシェビッチも少しアレンジしました。しかし基本手法は換わりません。
大日本帝国、日教組、そして小泉竹中の新自由主義政権も同じ手法を踏襲したのです。
「大衆操作の王道」のようですね。
とのコメントを投稿しました。
「ガス室」での大量処理が行われる前の、射殺段階で処分作業に従事したのはゲシュタポやSSといったナチの中核ではなかったことは証明されています。
ユダヤ人などとはまるで接触がなく、何の利害関係もなく、したがって何の感情も抱いていなかった普通の善良なオジサンたちで編成された「警察予備隊」だったのです。
皆さん、何の面識もなく、従って何の恨みもない人間を、銃口を後頭部に押し付けた至近距離で射殺できますか?当然、血液だけでなく,肉片その他も頭から降りかかってくるのですよ。
知らぬ間に普通の善良なオジサンたちが至近距離からぶっ放しているのかもしれない。
私も、そのひとりかも知れない。
ところで、キリスト教とイスラム教、そしてナチ、共産主義その他ほとんどの宗教には「ユダヤ」その他の悪魔が設定sれていますが、仏教と神道にはあるんでしょうか。
大東亜戦争では、まるで接触がなく、何の利害関係もなく、したがって何の感情も抱いていなかった「鬼畜米英」という悪魔を設定しましたが、高度成長期以後は「全国民の敵」設定できていないようですね。
これはいけませんなぁ(^^;)。
それで竹島?小さすぎます!
東シナ海ガス田?まだまだ小さい!
地球環境?大きすぎて見えない!
鬼にも仏にもなるのが人間ですね。
鬼子母神が私の散歩コースにありますが、子どもを食べて悔い改めた鬼子母神は人間の中にある性根を語る話だと思います。
仏教では煩悩というけれど絶対悪というのは言わないのではないだろうか。
悟りからみると娑婆での善悪なんて大同小異?
悟りに近づくための戒はあっても。
いやはや、私の仏教理解なんていい加減だあ。
中国や北朝鮮が再び?
でも、木を育てようと思いました。んん、私が樹になりたい。大きい大きい、優しい樹になりたいです。
佐平治さんは、凄い速読ですね。一冊を一日で読みますか?
いいですよね。
私は速読の方かもしれませんが、すぐ忘れてしまうのですよ。
並行して読んだりしているから本の神様が嫌っているのかもしれません。
とりあえずベッカーについては、ドイツ語版のWikipediaでさらったところ、両親ともユダヤ人で、ポーランド生まれ、幼少時にゲットー生活とさらに強制収容所(ラーヴェンスブリュックとザクセンハウゼン)を経験しています。父親はアウシュヴィッツを生きのびたものの、叔母一人を除くほかの家族は全員が殺されたとのこと。ですから、ユダヤ人を扱った小説を書く(変な言い方をすれば)有資格者ではあります。それがこの小説の価値を左右するものではないことは言うに及ばず。
感銘を受けた本で人様に勧めておきながら著者についてきちんと押さえていなくて申し訳ありません。検索が下手なのか日本語で読めるウェブ上の情報が仲々見つからず… こうなったらドイツ語のWiki記事を訳そうかな? なんて無責任な発言は自縛かな? 一応、
http://de.wikipedia.org/wiki/Jurek_Becker
走り書きでごめんなさい! ちょっと落ち着いたらあらためてコメントないしTBさせていただきます。まずは御礼まで。
改めてありがとう。
ベッカーについてもその後チョコチョコ調べた限りではそこまで分かりませんでした。
東ドイツ人としか書いてない記事が多かったのです。
私は大学でドイツ語もやったことになっていますがグーテンたークとかアインザーニッヒくらいしか分かりません。
ぜひぜひ訳してください。
人のふんどしで、何とやら、これってドイツ語にあるのかなあ。ユダヤ人は言うのかなあ。