こんな上司になれたら良かった 落語睦会で聴いた「百年目」
2008年 04月 20日
正確には実物を読んでいただくとして要旨は
戦争を知らず飢えも知らず苦労しない世代に対して、だからお前たちはだめなんだと頭からまともに扱ってくれなかったことに対する不満がモンスター化の一因ではないか。そのことが頭の中にあるうちに国立演芸場で扇遊の「百年目」を聴いた。
桂米朝が難しい噺の筆頭にあげる大ネタだ。
その概要は前に書いた記事で読んで欲しいけれど簡単に説明します。
江戸時代の大店の大番頭さん、仕事もできるが人物が固くて石の上に落としたら石が割れるんじゃないかというほど。
店中ににらみを利かし小言の多いことは小言幸兵衛さんも真っ青。
そう見せて実は大変な遊び人・通人(自分の金で)だ。
旦那に隠れて芸者や太鼓持ちをあげて花見とシャレる。
酔うほどに警戒心も薄れて土手の上で目隠し鬼さんに興じているとなんと鬼より怖い旦那にばったり。
風をくらって店に逃げ帰りいつお暇が出るかと震えているといよいよ奥からお呼びがかかる。
そこで番頭にコンコンと話すセリフだ。
扇遊のやったのとちょっと違うがここは志ん朝のがいいので「志ん朝の落語」(ちくま文庫)から引いてみよう。
番頭さん、あのね、遊びをね、隠してやることはありませんよ。そして小言も言いすぎると奉公人がいじけてしまうから
ね?遊びというものをね、遊んでその味を自分の体に付けて、表に出してもらいたい。(略、番頭は商いの道では文句がつけられない、けれど、、)
ただこういう具合に真四角(まっちかく)なン。ねえ?真四角のまんまで店ン中ァ動く(いごく)んだ、角に当たりゃア痛かろう?ええ?
そこのこの角ンところを、遊びでもってまあーるくしてもらう。
お前さんが逆に円みを帯びて帳場に座って、ニコニコ笑いながら言うべきことは言っていれば、それだけに力のある人だから周りはみんな言うことききます。動き(いごき)ますよ。そうすると店が明るく陽気になってお客様が来易(きい)い、と。
このセリフの前に番頭が初めて店に来た時のことを話すのだ。
使いにやれば三つのうち一つは忘れてくる。ねえ?え?買物に行きゃアお金を落っことして泣いて帰ってくる。二桁の勘定がいつまで経ってもできない。こんな者はちっとも役に立ちませんよ。周りの者が早く帰せというのをどこか見所があると我慢して
使っているうちに、今のようにこういう立派な番頭さん。まあ、こういう大旦那がいればね。
俺のようなへそ曲がりでもバリバリ働くかな。
そりゃ、俺が使った部下が同じことを言うだろうね。
この噺、下手にやると、きっとこの大旦那が立派過ぎて面白くないと思う。
番頭に魅力(ナンたって大した男なんだから)を感じさせ、その番頭が心底惚れるに足る魅力のある旦那、そういう演出・人物造型ができないと、、。
しかも、番頭一人でも堅物で、大勢の人を使う気難しい表の顔と、粋な遊びをする”旦那”(番頭でありながら)の顔と、小心な雇われ人としての顔の三つを演じ分けなければならない。
シテは番頭だと思う。
それが旦那のエラサの引き立て役に終わっちゃうんじゃしょうがない。
やっぱり”むずかしい噺”だね。
扇遊、一時間の熱演でした。
喜多八「鈴が森」
抱腹絶倒、とはいえバカ笑いではない。
イラチな泥棒の親分とドジでバカな(本人は二言目には「バカじゃないんですから」といい、そのたんびに親分に「バカだよお前は」と言われるのだ)新米のやり取りの妙に腹の皮がよじれた。(バカ笑いじゃないんだよ)
見どころなんてまるでない新米だと思うなあ。
鯉昇「長屋の花見」
喜多八の後、仲入りがあったけれど、ちょっと損だったか。
それは俺が喜多八にイッチャッテルからかな。
面白かったには面白かったけれど。
この人も好きだから期待しすぎたのかも。
>シテは番頭
そうですね。あらすじだけ読むと、大旦那のエラさを引き立てているだけの話に陥る危険がありますね。噺家ってすごいなあ。しかも笑わせてくれるなんて。
>戦争を知らず飢えも知らず苦労しない世代、
私が方々で連発している呼び掛けです。
>だからお前たちはだめなんだ
「だめなんだ」と言うつもりは全くないのですが、そう受け取られても仕方がありません。
他の方たちとの意見交換でも、社会の構造、メカニズムに関する理解認識の点で無限の深さのギャップを感じてきました。
ブログを始めて丁度2年、引き時でしょうね。
saheizi-inokoriさんに
「切れやすい老人」の大将
との称号を賜ったことです(^^;)
番頭さんの小僧の描写を聴いていてなんとなく懐かしかった。
>他の方たちとの意見交換でも、社会の構造、メカニズムに関する理解認識の点で無限の深さのギャップを感じてきました。
無限の、とまでは言いませんが何ともならないもどかしさを感じることはよくあります。
そこで私はあきらめています。無限の、と言えるほどちゃんと、しかもニコニコと言えるかというと?無理だなあ。
だからこんなんなっちゃった!
過ぎてしまえばむなしさが残る。
それでも、嫌だと思った人たちが自分より後の人たちのためにやっぱりもういいよ。って思うようになって、少しずつ歴史が変わってきてるのは確かですよね。
少しずつ人の心も気にできる時代が来て欲しいですね。
しかし、江戸時代の文化はすでに成熟していたのでしょうか。落語も古典文学として教育学科の必須科目にしてもらいたいですね。
私、はらはらドキドキする落語は苦手なんです。あんまりリアルで真に迫っているから聞いちゃいられなくなるんです。
上司や親は褒めてやる気を起こさせたりして指導していくのとは、ちょっと違ったこの噺、人の使い方で皆こうありたいし、それが理想かもしれません。
現実はケースがいろいろで大変です。
モンスター化の一因がこんなこととは・・・考えもしませんでした。
落語でハラハラドキドキって怪談くらいですかね。私は聴いたことがないですが。
この落語の旦那のような人がもっといるといいのですが。