意味づけを拒絶する世界 辺見庸「もの食う人びと」(角川文庫)
2008年 04月 17日
芥川賞の「自動起床装置」と並んで著者のいわば出世作だ。
この人の名前は今はブログをやめてしまった(俺が観ることのできる範囲では)sakuraasako さんが、とても高く評価されていたので、「いまここに在ることの恥」、「自分自身への審問」を読んだ。
誠実な、苛烈な生き方に共感し衝撃も受けた。
それなのに相も変らぬ微温的な”自分への審問”に忸怩たる俺だ。
まったく”いまここに在ることの恥”ダベサ。
(そういえば「いまここに在ることの恥」で自衛隊のイラク派遣の違憲性について小泉の滅茶苦茶な説明に何も言えない記者連中を厳しく糾弾している。
今日の高裁判決を記者連中は内心の深いところでどう受け止めるのだろうか。人のことを言ってる場合じゃないけれど)
世界の”辺境”(従来の、又は今もなお俺たちの心の中に当然のように存在する世界の中心=東京、NY、北京、、からみたら)30ヶ所を訪ねる。
そこに住む(ときには住むという言葉が当てはまらない、棲息し、収容され、居る、というだけの場合もある)名もない人々の名を明らかにして、つまり不特定多数の誰かではなく、確かにこの世に生きている一人の人間として、その人が何をどのように、どういう心持ちで食べているかを描く。
自分も食べてみるのだ、もちろん。
バングラデイシュ・ダッカでは、金持ちが食べ残した腐りかけた残飯(市場がある)を食うリキシャ運転手。
ピナトゥボ大噴火で山中から自然食文化の生活を捨てて下界に降りたアエタ族の長老はネスカフェと頭の無いイワシの缶詰が好きになっていた。
タイで日本の猫のために缶詰を作る工場で働く16歳の女の子は農村にいるよりずっと楽だからバンコクに一人住まいをして手作りの塩辛いソムタムを食う。
彼女には自分がこしらえた缶詰を誰が食うのか、想像しない権利がある。ベルリンではネオナチの脅迫におびえながらパン屋を経営するトルコ人・アポを好きになったドイツ娘が食べるピルゾラ(骨付き羊肉の炭火焼き)。
アポが言う。
ほんとうのネオナチっていうのは、貧しいスキンヘッズじゃなくて、ほら、立派な背広を着て、革のソファーに座ってるみたいな、上流のドイツ紳士の心のなかにもあるんじゃないかな飛び飛びに紹介してきたが、こんな調子でやってたらきりがない。
ポーランドの炭坑夫、ドイツの囚人、ヤルゼルスキ元大統領、サーカスの旅芸人、ザグレブの難民、クロアチアの漁民、修道院、チェルノブイリに残った人びと(放射能が濃厚に残っている森の中で禁じられた食物を彼等と共に食べたことが今辺見の癌の原因になったのではないだろうか)、択捉島のロシア人、ロシアの新兵、ウガンダのエイズの子どもたち、、。
食べ物の名前は解説なしではどんなものか分からないようなものが多い。
その中の圧巻の主人公は”もの食わぬ人”だ。
ソマリア・モガデイシオ。
かろうじて何かを食べている難民たちの中にその人はいた。
ファルヒア・アハメド・ユスフ。十四歳だが、三十以上に見えた。(略)辺見庸は、この少女をみて
栄養失調。結核。もう食べられない。立てない。声も涙も出ない。咳だけ。枯れ枝少女だ。
凍てついた影のように微動だにしない。
たまに、飼い猫のトイレみたいに土を入れた器に、音もなく排泄する。自分の排泄物と暮らしている。
こめかみに針金ほどの指を当て、この世のありとある苦しみを、他人の分まで、一身に負うた目をして、十四年の命がポッと消えるのを待つ。
ごめんよ。ごめんよ。突き動かされ、そう言うしかなかった。拝むしかなかった。
ここにいま、世界の密やかな中心があると考えた。
それは感傷ではない。
声も涙もでず視力さえなくなった彼女の顔は、先進国サミットに集うあの旦那方の胡乱で澱んだ貌とは比べるも愚か、神々しいほどに美しかったのだから。このようにして彼は行く先々に世界の中心を見た。
神のような人々がいて悪魔のような人々がいてものを食っていた。
ここでの出来事を著者は
熱くたぎる景色が私の目をしたたかに射て、安直な意味づけを拒む。と書いている。
30のどの話もすべて細部、細部、ディテイルが描かれる。
細部こそすべてなのだ。
概括など意味はない。
世界は細部から成り立っている。
著者は言う。
細部こそが大事であり、細部の積み重ねでつまらぬ私の世界観など覆してしまってもいいのだ。(略)世界にはまだ記録も分類も登録も同情もされたことのない、今後も到底そうされそうもないミクロの悲しみが数限りなくあると確信しもした。そう。意味なんてない。
事実があるのみ。
手あかのついた意味付けや解釈を峻拒する事実がまっすぐに突き刺さってくる。
ごめんね、ごめんね。
今こうしてあることを恥と思う気持ちだけ。
最後はソウルの日本大使館前で割腹自殺をしようとして果たせなかった元従軍慰安婦の三人が登場する。
ようやく接触のとれた彼女たちは何べんでも成功するまで自殺を試みるという。
死ねば、残りの人たち(元従軍慰安婦)が補償金をもらえると思った。、、、死ぬのを日本人にね、見せつけてやりたかったのよ彼女たちはセマウル号の車内で駅弁を食う。
焼き海苔、かまぼこ、キムチにご飯。
彼女のうちの一人の両親の墓参りに行くのだ。
又別の日、ひとりがソウルに帰る送別の宴。
大衆食堂でニンニクを山のように入れたプルコギ、レンコンの煮付け、イカ・キムチ。
著者は繰り返し繰り返し
死ぬのはもうやめてください。言い続けるのだった。
やれやれ又シチメンドクサク、長々しくなってしまいました。
「辺見庸」のルポルタージュ作品『もの食う人びと』を読みました。 [もの食う人びと] 「現地の人びとと同じものを、できるだけ一緒に食べ、かつ飲むこと。」を自らに課した究極の食レポでしたね。 -----story------------- 第16回(1994年) 講談社ノンフィクション賞受賞 人は今、何をどう食べ、どれほど食えないのか。 人々の苛烈な「食」への交わりを訴えた連載時から大反響を呼んだ劇的なルポルタージュ。 文庫化に際し、新たに書き下ろし独白とカラー写真を収録。 -----------...... more
私の、思い違いの本ではありましたが、一夜で読破したのを思い出しました。恥ずかしい思い出です。
ちょっとほっとします。でも自分のことだからね。
自己愛、そうに違いない。そう思ってもごめんね、という。自分に言ってるのかも。そういう自分が好きなのかも。
ますます、ごめんね、です。
そういっといて今日もうまいもん食うかあって?
昔「男は黙って」というビールのCFがありましたね。(あれはセクハラ?)黙って謝っていればいいのかな。
どうもありがとう。くりかえしました。ほんとに。
何もかも無駄・無意味に感じられて、自分の書いていることが片端から嘘ってビラをぶら下げてその辺に漂っているような気がする。
それは根本はブログに書く書かないじゃなくて自分の生き方の問題なのですが。
まあ、ビラをながめながらでも吐き散らしますか。自分の反省のためにも。
2006年6月25日の『カマトト日記』、「辺見庸講演会」も見つかりました。さすが、いい文章でした。
「今ここにあることの恥」。安易にネットに書き込みますと、恥を晒し続けることになりそうです。暇な折にはブログを読み返して、削除したり推敲したりすることにします。
もう一度、じっくり読んでみないとだめですね。わたしには・・。
昔の記事を読むと我ながら顔が赤くなることがあります。消去しだしたら残らなくなりそう。
自分が死んでいくことをシュミレーションしてみると人びとに対する感謝の気持ちを強く持つそうです。生かされていることを感じるのでしょう。死体を見ることにも同じような効果があるのでしょうか。
毎日読んでないとダメかも知れない^^。