身につまされた実方の嘆き 狂言「夢てふものは」 能「実方」(国立能楽堂)
2007年 12月 13日
この間全く観なかったのではなく11月には狂言・「禰宜山伏」野村萬斎、能・「松虫」高林白牛口二を、今月始めには「金春円満井会特別公演」で能・「橋弁慶」金春穂高と金春飛翔(牛若丸)、狂言・「萩大名」大蔵彌太郎と榎本元、能・「道成寺」井上貴覚などを観ている。
「橋弁慶」では居眠り初体験という極上の時間を過ごし、「道成寺」はやはり披きの緊張感と劇的な躍動感で十分に楽しい思いをした。
それなのにブログに感想を書かなかったのは、観た能・狂言のせいか、俺の側にモンダイがあったのか、要するにそういう気にならなかったのだ。
無我夢中になって能の世界に突入してちょうど一年、俺のほうに何かの変化がでてきたのかも知れない。
今回は書きたい。
お目当ては新作狂言「夢てふものは」だった。
宇治拾遺物語の中にある吉備真備の故事を書いた「夢買ふ人の事」を帆足正規が換骨奪胎して狂言にした。
茂山千之丞、茂山忠三郎、茂山あきら、野村小三郎、茂山良暢。
演出も担当した千之丞がパンフレットに「新作狂言の難しさ そして 楽しさ」と題した文章の中に
(創造期には新作であった中世の狂言が)二百年を越える歳月を経て近世初期に定型化し、今もなお上演し続けられているものが所謂古典狂言、であって、それは
代々の狂言役者の創意工夫と観客の感性によって淘汰し尽くされた作品群だ。だから
古典狂言の枠組みの中へ、目新しい主題やチョッとした思い付きを持ち込むくらいでは、古典を乗り越えることはなかなか出来ることではありません。と書いている。
その意味では面白かったけれど”古典を乗り越える”ところまでは行かなかったかも知れない。
復曲能「実方」。
素晴らしかった!
西行法師(ワキ・宝生閑)が陸奥で悲劇の歌人・実方の墓を見つけて和歌を手向けていると実方の霊が老人(シテ・梅若六郎)となって現れる。
古今集と新古今集をめぐり歌について語り合う二人。
老人が消えると里人(野村万作)が登場して西行に実方のことを語る。
再び実方は美しく華やかな姿で登場して舞う。
「太鼓の序の舞」、かつて賀茂の臨時祭りで勅命により
実方は粧ひ花を帯びて、盛り今半ばなり、君の恵みの時めきて、色香上なき舞の袖
禁中の上臈たちは、みな心奪われたる舞だ。
うっとりと
水に映る影見れば、我が身ながらも美しく、心ならずに休らひて、舞の手を忘れ水の、みたらしに向かひつつ、影に見とれて佇めり。ところが、
その御手洗川に映れる影を、よくよく見ると、実は
美しかりし、粧ひの今は昔に変はる老衰の影白髪老残の身であることが見て取れたのだ。
それが分かって後なおも舞い続ける実方、やがて
跡弔ひ給へ、西行西行と消えていく。
シテ、ワキ、アイ、地謡、、全てが美しい声で、これは誠に歌の物語であり夢の物語であることを、歌や夢は美しく語られるべきものであることを知らしめてくれる。
目をつぶって聴いているだけでこちらも西行の夢の中に誘われるようだ。
笛・松田弘之、今までの能で聴いたことのない名乗りで始まる。
さびしい、物語性を帯びた調べが乾いた心を鷲づかみにする。
何故かモダンな何かを感じた。
小鼓・大倉源次郎、大鼓・亀井忠雄、これだこれだ、というよろしさ。
特に太鼓・金春惣右衛門、笛とともに序の舞を静かな華やぎから躁とでも言うべき喜びと陶酔、そして沈静・諦めへの移行が素晴らしく、地謡も澄明なハーモニーで、ギリシャ悲劇(観たことはないのだが)にあるだろうような荘厳を現出した。
この曲用には、老人(尉)、若い貴公子、両方を兼ね備えている、の三種類の面があって解釈によってどれを使うかを決めるのだそうだ。
今回は老人の面だった。
観終わって直ぐの感想は若い面の方が良かったと思った。
シテの舞いも、水に映った老人の顔を見るまではもっと若々しくやった方が良いとも思った。
一夜寝たら考えが変わった。
今回のように老人の面で舞いも最初からよろよろと心許なく舞ってよかったのだ。
実際は老いているのに自分だけは若く魅力的な男であると思い込んでいる。
心を裏切る身体。
老いたるナルシシスト、悲劇のナルシシストは老残の身に華やかな装いをしてこそその哀しみが強く伝わるのだ。
若者が老人の姿になるのではまるで当たり前でつまらない。
皺だらけの幽霊が若い気分で舞うから凄みがでるのじゃないだろうか。
狂言も能もキーワードは「夢」と「老い」。
「夢てふものは」の表題は小野小町の歌をマクラにしている。
さすれば卒塔婆小町だ。
美男美女の老残を夢物語でくるんでみせたとは流石に国立能楽堂。
やはり能はいいなあ。
でも、書いていただいたほうが読むほうは楽しいデス(あたりまえです)
一晩寝てから、見方・考え方がかわるというのは、心に響いてるということなんだなぁと思います。私は能を見る習慣がなくて、2度くらい見たかな、でもどちらも私が幽玄の世界にいってしまいまいました。鑑賞には知識が必要、古典本を読むあたりからはじめたいと思います。
能・狂言・落語、みんな勉強すればそれに越したことはないけれど、全く馬鹿みたいに見ているのもいいですよ。
後見、後ろで座っている人をずっと見て感動していいるひともいるんです。
ミーハーでいいと思いますよ。
初めて能楽堂に行ったのは、40数年前でした。
冬の水道橋能楽堂は、暖房も無く寒くて縮こまってみていました。
それから数回、通いましたが今は、近くの神社の薪能を観ています
献能ですから、演目が限られますが。
神田明神で一度遠望しましたが、当時は能なんて!でしたよ。
西行の世捨て人のような生き方が反映されたようなストーリーですね。
孤高の旅人とされている西行ですが、出家前にはかなりのプレイボーイで、数々の浮名を流したとか・・・
老いても魅力的な男であると思い込んでいるあたり、西行とダブります。
早く出ないかなぁ?楽しみです~ぅ^_^
それだけ浮名を流したんだから、相当の美男子だったとの言い伝えもありますものね。
私の大好きな彼の歌
「願わくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」
これを詠むのは見目麗しき薄幸の人でなくちゃ。