超絶の舞が明かす山姥の秘密 友枝会(国立能楽堂)
2007年 11月 06日
そこからは乗り物も使えぬ難所越え。
山中で行き暮れていると山姥(シテ・友枝昭世)に遇う。
前シテの装束の素晴らしさ!
無紅唐織(色なし、色とは赤のこと)は市松模様。
その市松がエゴン・シーレかクリムトの絵に出てくる金色の模様と渋い錆色のような無地の組み合わせだ。
渋くて派手でシャレていて、、シブハデ!
山姥は一夜を提供するから、山姥の謡を聞かせてくれという。
「山姥のことを謡っているくせに肝心の山姥のことを考えてくれないのは恨めしい。」
「謡ってくれるなら自分はもう一度現れて本当の姿を見せましょう」
そういって
かき消すように失せにけり正面右脇の席から観ているとシテは長い橋掛かりをどんどん遠ざかってどんどん小さくなって、小さいばかりか存在感も薄くなって幕の向こうに消えてしまった。
山姥とは何か?
所の者(アイ・野村扇丞)は遊女の従者(ワキ・宝生閑)との問答で「山姥はウツボが変身したもの、いや桶だ、木戸だ」、諸説を紹介する。
では「山姥」を謡って、山姥の再登場を待ち”本当の姿”をみることにしよう。
後シテの登場。
前シテが一転して性を感じさせない鬼になっている。
舞台正面を前に出てきて両手を広げると”大きい”、一口に女を食ったという鬼だ。
「足引きの山姥が山廻りをするぞ苦しき」
廻る山とはこの世か?地獄か?
山、谷、海、、自然にたとえながら廻る世界を舞で示す。
丸い、直線の、上下する、前後する、くるくる回り、滑らかな、電気ショックのような、小さな、大きな、さまざまな動きをひとつの呼吸の中で表したような、完全に俺の、見所の魂が舞台に吸い込まれていた。
人は死なんとするときに宇宙の真実のすべてを観る、などという言葉があったとすればまさにそんな全てがうつしだされていたようだ。
鹿背杖(かせつえ)を扇に持ち替え、再び杖を突き、、写実と抽象の間を行き来する。
時に鬼はいなくなって、そこにはなんともいえない優しい慈しみの表情をした仏がいる。
かと思えば
鬼の目に涙!泣いているのだ。
囃し方(笛・一噌仙幸、小鼓・北村治、大鼓・柿原崇志、太鼓・助川治)、地謡も山姥の宇宙に溶けてしまった。
山姥とは
世を(ようを~、とひときわ力を籠めて謡った)空蝉の唐衣色即是空の全てを体現し、そしてその狭間にあって苦しみもがくもの、それは人間そのもの!
そして森羅万象そのもの、そうよ、所の者よ、桶でも木戸でもあったのだ。
それが山姥だったのか。
あらお名残惜しやくるりくるり、回って、再び橋掛かりを彷徨うがごとく、しかし猛烈なスピードかと思うような足取りで消えていく。
登場したときとはうって変わっておばあさんのような後姿がひょいひょいと、、。
ワキがすっくと立ち上がって見守る中をみるみる小さくなって消えていく。
90分という長い曲の後半の殆どが後シテの舞、呆然と観ているうちに終わったから一呼吸なのだ。
ワキツレ・大日方寛 ワキツレ・御厨誠吾
能・「巴」
シテ・友枝雄人 ワキ・殿田謙吉 ワキツレ・則久英志 野口能弘 アイ・吉住講
笛・一噌幸弘 小鼓・曽和正博 大鼓・國川純
地謡・粟谷充雄 粟谷浩之ほか
狂言・「杭か人か」
シテ・野村萬 アド・野村扇丞
どちらもとても良かったけれど、山姥にみんなもってかれた。
魔力だね。
装束も勉強されたのですね、二度三度いつも読んでしまいます。
教えてください?山姥はどんな面をつけているのですか。
鬼面ですか?般若は女でしょうし、老婆とも思えませんし、人間そのものって??
姥ですから女性です。ただ登場したときは女を感じさせない鬼のように見えたのです。
この曲の思想と言うか哲学なのでしょうね。人間の煩悩を集めて具現化した姿が山姥だと、それはまた宇宙そのものにも通じる。禅というか仏教哲学ですね。www.nohmask.net/photo/onryo/yamanba.jpg
パソコンができるようになって(たどたどしいですが)楽しみが増えました。 明日の朝は冷え込むようです、お気をつけてください。
宇宙の全てが見られたら嬉しいですね。