恐ろしいカラシニコフを造った優しい親父 そいつと仲良くなった松本仁一
2007年 05月 15日
実は彼と俺は高校の同期生なのだ。
彼が今度「日本記者クラブ賞」を受賞したので高校の同級生がお祝いの会を開くことになって同”級”じゃないけれど俺もよんでくれた。
なに、松本を肴にして久しぶりに一杯やろうという魂胆。
上野の韓国料理が軒を連ねる中でややこじゃれた店・「満奈多」の2階に20人弱が長細く座る。
6時からというから5分前に行ったらもう殆ど集まっていい機嫌になっていた。
こういうときに俺達も第一線から退いたんだということを改めて感じる。
ボーン上田賞とかエッセイストナントカ賞にカントカ賞に新聞記者(朝日)が貰えそうな大きな賞は総なめだ。
それでも遠慮のない仲間たちから「おう、おめでとう」とか「大したもんだな」などと声をかけられて満更じゃなさそう。
いや、随分嬉しそうだった。
マッコリをぐびぐび飲みながらマスコミのだらしなさなどをあげつらって騒ぐ。
最後には結局全員が一言づつ立って何かを喋ったが、多くが朝日新聞のダラシナサ、堕落とお対にして松本を褒めていた。
故郷の友が名をあげたことを素直に喜んでいる気配が快い。
俺はインタネットを使って見て来た風なシャラクサイ記事を書く記者が多い中で、松本がキチンと現地に行き、実際に会うべき人にあって書く、という記者として当然のことをして賞をとったことがいかにも質実剛健を旨とした我が高校の卒業生らしくて嬉しい、というようなちょっとアナクロなことを言った。
栗林中将も我が先輩なのでやや復古調になっていたのかも知れんノウ。
松本が再び立って、カラシニコフを設計したカラシニコフに会ったときのことを披露した。
アフリカで取材していて、カラシニコフが生きている、と聞いて、こりゃどうしても会わなくちゃならねえと思ったんだ。、、カラシニコフはソ連の陸軍中将にまでなって、今は民間会社でライフルなどの開発に携わっているそうだが月収は800ドル程度だとWikipediaには載っている。
会ってみて俺は銃のことを何にもシラネエってことに気がついた。
スライドとか、もちろん通訳はつくんだけど、いろいろ言われてもなんだかわかんねえんだ。
今までいっぺえ(長野の方言・一杯)インタビューに来てそういう人タチャみんな銃のことなんかもよく知ってるし聞くことも、ホレ「あんたの創った銃で世界中の多くの人が殺されていることをどう思うか」とかサ、おっさんもウンザリしてるわけだ。
そういうことは殆ど俺は聞かなかった。
一体どういう人なんだろうって、そればっかりさ。
それにしても銃のことをなんもシラネエってのはまずい。
それで出直してくることにしてその時は直ぐ帰った。(けえった、と発音)。
それから勉強して又会った。普通は自分の家で会うなんてないのにド云うわけか家に行った。
マダなかなか調子に乗らないときに、ふと見ると彼の左手の人差し指のところに傷跡があるんだ。ピンときて「これは鎌で切ったんじゃないか?麦刈り?」と聞いたら「そうだ、よく分かったなあ」って、もちろん通訳が言うんだけど(いちいち言わなくても分かってるのに)。実は俺も小さいときにしょっちゅうやらされて矢張り同じ傷を負ったことがあるんだ。
それからかな、すっかり打ち解けて、今年88だったか、彼の誕生日にも家に招待してくれたり、、、。俺はジジイ殺しみたいなとこがあるんかな、可愛がってくれるんだよ。
松本に「おっさんは一人の人間として日本の若者?と話しができて嬉しかったんだろう」と言ったら、松本も嬉しそうな顔をしてうなづいた。
写真はDOCOMOの反撃、凄まじいポスター攻撃の中でソフトバンクが一枚だけ残っていた。
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カラシニコフは第二部も出ています。
冒険小説、私も昔はよく読みました。小説の中だと殺人も痛くもかゆくないですね。
2階があるんですか。
先日、キースジャレット・トリオを文化会館で聴いたあと、<わぎもこ>が
「満奈多」というのを渋って、近くのもっとコジャレていないディープな「板門店」で食事をしてきました。
ご存知ですか?
デイープね、そそられます。