ウエブは人間を変えるか? 梅田望夫・平野啓一郎「ウエブ人間論」(新潮選書)
2007年 05月 03日
インタネットが世の中に普及し始めたのが95年頃、今10年経過していよいよウエブ2.0と言われる新しい局面を迎えようとしている。
それは、単に利便性が向上するということだけではなく、人間の生き方をも変えていく可能性があると梅田は言う。
そしてその内容は未知なのだと。
10年前にgoogleが”検索”を全ての中核に据えたシステムを創りだしたときにそのことの重要性が殆どの人には理解されていなかったように、これから提起されるサービスがどんな意味を持っているか、それに人間がどのように自覚的に対処していけるかは未知なのだ。
梅田、60年生まれ、平野、75年生まれ。
それぞれ、人生の重要な時期にITとめぐり合い今やネットが無ければ生きていけないような生活だと言いながらもネットの可能性、弊害などに対する考え方はかなり異なる。
平野の方がネットを利用する「個人」が社会に対してどう責任を果たしていけるか、という視点が強いようだ。
ブログに夢中になることで社会的な責任を果たすことから逃げているのではないか(特に匿名性によりかかって)とか、ネットの中でエスタブリッシュメントの悪口を言うことが(それ自体無意味ではないとしながらも)リアルな世界で有効な力とはなりえず結果的にむしろ社会の安定にサブシステムとして寄与しているのではないかと問題提起をする。
梅田はITによる大きな社会変化は不可避である以上、個人はその変化に如何に対応して”サバイバル”していくべきか、と言う視点で考える。
悪意の中傷などの、匿名ブログの弊害などについてもいづれはそれを”無視する”という対処術が人々に備わることにより解決していくと見る。
人間は自分で周りを選ぶこと無しに与えられた環境に生まれてくる。
その後の人生においても必ずしも思うような環境に身をおくことが出来なかったと感じている人が多い。
そういう人々にとってウエブの世界で世界中の人と瞬時に殆どコストゼロでつながることが出来るということはウエブ以前には考えられない出来事だと梅田はいう。
望む環境を選んでそこに”住む”ことができると。
俺もブログ暦まもなく2年。
つくづく感じることは「いくら匿名にし別人28号を装っても毎日記事を書き多くの人とコメントや記事でつながっていると、結局生の自分を偽ることは出来ない」ということ。
別人になるということはリアルな世界の自分の、いわば”余計な”属性を剥ぎとって本音の自分を自ら探っているような気分もある。
そして梅田が本書の中で言っているように「自分が成長していく」ことを感じるのだ。
それは、「今までリアルな世界では思っていても発言する相手がいなかったり、機会が無かったことでも発言できること」、「その発言を書き込む行為自体が拙い考えをわずかでも整理された考えにしてくれること」、「その考えに対してブログの世界の人からさまざまな反応を得ることで再び自分の考え方が変化していくこと」、、などだ。
ブログを始める時は今まで忙しく夢中でやってきた仕事を辞めて何もしないでいるのは淋しいから手遊びに、くらいな軽い気持ちだった。
それが今のところはブログ無しの毎日は考えられないくらいだ。
確かに「”検索”出来る」ということは異質の世界の結び目を瞬時に目の前に提示してくれることだ。
言葉の検索、意味の検索、人々の検索、出来事の検索、、検索して俺は新しい知に出会う。
その速度と広がりはウエブ以前には想像も出来ない。
将棋の羽生が「情報の量が質に転化する」といい「これだけインプットの質がよくなったんだから、これからもっと頭がよくなっていく」と思うようになったと梅田に語ったそうだ。
俺も羽生にはかなわないけれど少なくともアホになる速度を遅くすることは出来そうだ。
ブログの仲間から教えていただいたことの量と質の素晴らしさ!
AMAZONが本のダウンロードサービスを始めたことなどを平野は「紙を使った本」の存在意義が無くなるのではないか、と危惧するのに対し梅田は、音楽とは違って「紙」には付加価値があるから本が不要にはならないだろうという。
俺もどんなに読みやすく工夫されても紙の本は買い続けるだろうな。
対談集にありがちな「そうだそうだ」の合唱ではなく、特に平野がねちっこく疑問を糺して行くのと、二人の気質・関心が異なっていることがこの本を面白くしている。
写真は横浜・国際仮装行列で。
この感想文を読んでいろいろ思い当たる事がありました。この本は一読の価値がありそうですね。
拙僧も、ブログ歴丸2年を過ぎましたが、する前までには想像も付かなかったような本を読むようになっています。たまに、書くネタがなかったり、或いはありすぎて困ったり、しかし段段と後者が強くなってきました。インプットとアウトプットのバランスが取れるときと、取れないときがあるのでしょう。
新聞は一面と三面という風にニュースバリューが一目同然ですが、ネットでは並列表記なので事件の社会的な重要度が分かりづらく、新聞の方が俯瞰で全体を見渡す事が出来る。と書いていたのは確か姜尚中だったと思います。
本にワード検索機能が付いていたら、どこに何が書いてあったか探す手間が省けて便利ですよね。
きっとウエブ進化を身をもってご覧になってきたのでしょうね。
怠け者の私は少し強制されることが必要なのでブログ更新はいい刺激になっています。
私も書く材料が多いときと何も無くて困るときがあります。
それは材料の多寡ではなくて書こうとする自分自身の気分の問題だと思います。同じ材料でも無性に書きたい日と、なんだかつまらなくて書く気になれない日があるのです。つまらないと思っていても書き始めると面白くなることもあるしその逆の日もあり、でなかなか書くということは不思議な営為だと思います。
ウエブで索引を引くようにして作品に辿り着き、改めて本を買う人が増えるのではないかと梅田は平野の危惧に答えています。
確かに昔だと到底知ることの無かった作家や作品をウエブの世界で簡単に教えてもらえる(人や検索機能により)ことは有難いです。
本とウエブが互いの機能を活かして共存することが一番望ましいですね。
私も少しでもボケないようにと願っています。ブログによって色々な知らない事を教わり本当に有難いと思っています。
でもこう言う事が出来るのは、健康だからですね。
お互い健康だけは気をつけて参りましょうね。
saheiziさんは心臓がお悪いのですか?
くれぐれもご無理をなさらないで お気をつけて下さい。
「結局生の自分を偽ることはできない」というのは、私もそのとおりだと思います。しかし世界がひろがりました。
ブログには、今のわたしは凄く救われていますよ。匿名でも、何度か記事やコメントを読んでいると、その人がわかりますよね。
saheiziさんがどんな人なのか、イメージ膨らませています。かなり分かってきましたもの(笑
私っておかしいんじゃないか、と思ってたんですが
たぶんブログは「素の自分」になれるので
心が安定するのかもしれません。
嫌なことがあっても「投稿のネタにしよう」と思えるし
新しいことにも沢山出会いました。
ブログ始めて良かったです♪
会社の仲間はほとんどパソコンを持っていません。ITの苦手な人間が万引きGメンになるようです。(笑)
それで、ついつい雑文を投稿してしまいます。この方が楽しいですからね。
しかし、そろそろ、本筋に戻さなければなりません。
少しストレスがあるくらいがちょうどいいのかもしれないなあ、クリエイテイヴになれるのは。
私の生活にPCが入ってから早20年近いのですが、インターネットと関わるようになって、みなさんと同じようにずいぶん広がった気がします。
今、こうして、お会いしたことのない、saheiziさんのお友だちと出会い、意見をお聞きする。わからないこともすぐに検索できる。これをしていない友人に比べ、自分自身が無知でも身軽にスイスイと知ることができ、その喜びも知りました。たくさんの出会えるはずがなかった人と現実に友人にもなれたことは本当に不思議です。文章はウソを書くこともできるけれど、ウソはいつまでも続かない。やはり人間性を表すなーと実感しています。しかし、私は、紙をめくる本の存在も信じます。手触りの素敵さは、ネットでの知識とは違うと思います。相互に存在していけるのではないかと思います。
これからも、みなさんのワールドへのサーフィン楽しませてくださいませ。
動機は
>淋しいから手遊びに
の正反対。締め切りに追われまくっている間に、数ある持病の一つである「離人症」に気が付き、「離人症」人間が匿名の世界に入ったら何をするだろうか、という点に興味を抱いたからです。
予想通り、私から離れた私が「あぁ、やっとる、やっとる」と楽しく私を観察できる状況にあります。
本当は、まったく何も解明されていない深刻な病なんですけどね。
「離人症」については
ウィキペディア「解離性障害」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%A3%E9%9B%A2%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3
で触れられていますが、要するに何もわかっていないのです。
ただ別な解説では「抑鬱症」「パニックシンドローム」との併発が指摘されています。これは正解のようです。私の場合、律儀に併発しています。
「パニックシンドローム」は本当に「パニック」で苦しいのですが、「離人症」の方は心構え次第では楽しめます(^^;)。
頻繁にはないですが。治すことは出来るのでしょうか?大変ですね。
一方、「離人症」では「現在」が変わるのです。たとえば、自分の発している声は普通は外部から鼓膜に達するのではなく、声帯の振動を鼓膜より内側の骨が聴覚に伝えていますね。それが突然外部、すなわち鼓膜から聞こえるようになるのです。つまり遠くなるのです。そして会話している相手の声も遠くなります。遠くから聞こえます。しかし会話は普通に続けているのです。
この状態から離脱する、つまり正常に戻る引き金が、これまた多様で、交通信号が変わったり、電車が止まったり、タバコに火を付けたり、といった瞬間に戻るのです。
原因がわかっていないので完治は不可能のようですが、「抗不安剤」で現象の発生を防止できる場合が多いことまではわかってきたようです。
やはり「パニック・ディスオーダー」と関連があるようですね。
しっかりしたコントロールが出来ないまま我知らず口をついてでた言葉などを表現するときにつかいますね。
「~~という本当なら到底口に出すはずのないことを喋っている自分を他人を見るようなしらけた気分でみていた」なんて。