急にそう言われてもなあ 谷沢永一「聖徳太子はいなかった」(新潮選書)
2007年 03月 07日
本書の最後に司馬遼太郎の「街道をゆく」からの引用がある。
記録のない古代を詮索するのは、実証性というレフェリーやリングをもたないボクシングのようなもので、殴り得、しゃべり得、書き得という灰神楽の立つような華やかさがあるものの、見物席にはなんのことやらわかりにくい。「聖徳太子伝説」はその典型であり、
聖徳太子はいなかった。聖徳太子は幻であった。聖徳太子は夢であった。聖徳太子は、古代日本における憧れの心情にもとづく理想の人間像を、文字の上に結晶させたところの、誠に発する虚構(フイクション)である。(これは本書からの引用)。なぜ、このような伝説が創られたか、深層では”憧れの心情”である。
が、直接的には皇室・皇統が確立されていない時代にあって、壬申の乱で天皇の座を簒奪した天武天皇が自らの子孫たちに同様な反逆が及ぶことを恐れ、藤原不比等もわが娘が産んだ光明子の婿(後の聖武天皇)が即位するまで持ちこたえなければならないという政治的必要性が聖徳伝説を日本書紀に書き込ませた。
即ち皇太子という地位がありそれは神聖なものだ、皇太子を斃すようなことは許されない。
そういうために聖徳太子伝説を創らせた。
本書を読む限り聖徳太子が実在したかどうかの論争にはとっくに勝負がついている。
太子実存説の根拠が全て完膚なきまでに粉砕されている。それを読むと古代史家なる人々がいい加減な”見てきたようなウソをついているか”、司馬さんの言うとおりだ。
なかでも教科書裁判で何となく”正義の歴史家”なるイメージの家永三郎教授のごときが実在説と非実在説を同時に使い分けているさまなど学者の皆様のご苦労すら偲ばれる。
実際、筆者は柳田国男、折口信夫、井上光貞などは聖徳非在を知っていながら当時の国体問題に行き当たることなどを配慮して沈黙していたという。
博学な著者の辛辣・諧謔に満ちた語り口は愉快・痛快だ。
しかし、俺の使っている「日本史年表」(吉川弘文館・児玉幸多)にも堂々と?マークなしで太子の生没や「三経義疏」の成立年まで書いてある。
なぜ、実在説は生き残っているのだろう。
ひとつには著者のいう
現代、言論統制による画一化がはなはだしいのであるかもしれない。更には、今更聖徳太子が実はいなかった、なんていわれたら困る人が多いのかもしれない。日本史における”不都合な真実”というわけか。
俺は、著者も書いているように聖徳太子が日本人の心情の理想像として機能してきたからだろうと思う。
網野善彦氏が言うようにそもそも太子の時代6世紀末には「日出る」もなにも「日本」という国などなかったというならナオのこと、太子伝説は後世の日本人の心に美しい国・日本のイメージを体現する存在として光彩を放ってきたのではないか。
いわば日本統合の精神的シンボルだ。
17条憲法(著者は「憲法」なる言葉が元来持っていた意味から説きおこし、太子がそんなものを作ったわけがないことも学会の常識として紹介している)の「和をもって尊しとす」、この言葉が日本の社会・歴史でどれだけ猛威をふるったことか。
高校の同級生に「和貴」という名の・随分乱暴だった(今は知らず)男がいたくらいだ。
遠山の金さん、水戸のご老体、、などは実在した人間に伝説がきらびやかに付け加えられて日本人のスーパースターとなった。
聖徳さまは存在から創り上げられたスーパースターであったし、今もあり続けている。
多くの人々にとっては彼が実在したか否かなんて殆ど意味がない。
紙幣という紙片に実際的価値を認めれば「聖徳太子は一万円」の価値をもつけれど、絶海の孤島に行ったら鼻紙にもならないのだ。
日本人が聖徳太子に体現されるもろもろを価値とする限り太子は”実在”し続けるのだろうな。
それにつけても「あるある」のやらせなんてモンじゃないね。
世界史でも同じようなことが行なわれているのかもしれない。
履修しない高校はその辺りを見抜いた慧眼の持ち主だったりして。
聖徳太子と言えば、古代史上もっとも有名な人物であろう。仏教の擁護者としても知られるが、その生涯は超人的なエピソードで彩られており、太子自身も信仰の対象となっている。 ...... more
それにしても大学の国史の授業では、やたら古代史が長かったような気がしましたが・・遠い昔の話ですけどね。
うーん、となると、アレは、コレは?さてはて。これも読まなくては。
そろそろ、saheizi蔵書貸し出し文庫始めませんか。
一言で言えば、大化改新はなかった、ということです。蘇我氏を滅ぼした後、孝徳天皇が即位して大化改新を行うのですが、孝徳のコの字も出てきません。
蘇我氏は逆臣ではなく開明派の忠臣だった。中大兄は蘇我氏を滅ぼしたがそれは反動的クーデターのようなものだった。改新的政策は行っていない。後に白村江で倭国は唐・新羅に破れ(いわゆる「大化改新」の18年後だったかな?)、防衛上、天智は律令体制を推進した。とか言ってましたよ。
大化改新虚構論は学界でも進行中ですが、NHKのディレクターは虚構論に組したようです。ところが、蘇我氏を忠臣にしてしまってます。プラスマイナスゼロかな? (笑)
番組を見た生徒が教師に「大化改新はなかったんですか。」と質問するかもしれません。教師は、「耶馬台国も畿内説と九州説があって決着はついていない。大化改新虚構論もひとつの学説として受け取るように。」と言うしかないでしょうね。
こうなると「ヤマト民族が...」とのどっかの大臣のご発言が一層厳かな光を帯びてきますなぁ(^^;)。
それとも、法隆寺も捏造なんでしょうか。
読みたい本仰ればお貸ししますよ。
大山教授でしたっけ?の本をちゃんと読んだ方がいいのでしょうね。
法隆寺に聖徳太子の姿を重ねる歴史ロマンを信奉する人にとっては許しがたい不愉快極まりない論でしょう。
URLを入れると送信されないのでここに書きます。
http://www.aoyama-matsudo.com/shohtoku-taishi-ishda.htm
歴史と云うものが考えられるようになった頃には既に捏造は存在していたのでしょうね。
聖徳太子虚構論に深入りすることもないだろうと思います。谷沢氏も平気で太子虚構論を書ける世の中になったということですね。戦前ならおおごとですよ。
むしろ、森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書)をお勧めします。『日本書紀』の漢文、音韻を分析し、誰が書いたのかを推定しています。古代史を学ぶ者にとって必読文献です。立花隆氏が「群を抜く面白さ」と評していますが、読み物としても超一流の面白さを持ってます。森教授はNHK「大化改新 隠された真相」にも出演し、改新詔は書紀編纂の最終段階に加筆されたものであり、大化改新があったとは言えない、と発言していました。
古代史関係では、三浦佑之『金印偽造事件』(幻冬舎新書)もお勧めです。志賀島から出土した「漢倭奴国王」の金印は教科書にも載っていますが、それは江戸時代に偽造されたものである、と論証しています。三浦教授も、大山教授の聖徳太子論には賛成である、とHPに書いていました。
金印、聖徳太子、大化改新、すべて問題あり、ですね。(笑)
私だけでしょうね。天皇の推古はどうなのでしょうか?
まだ読みかけですが、真偽はともかく『王様は裸だ』的な子供のようなしゃべり言葉が痛快ですね。
ただ、十人の訴えを同時に聞いたとかあからさまなウソはともかく、非存在説まではちょっと。
変なアジ演説に悪用されそうでコワい・・・
>履修しない高校はその辺りを見抜いた慧眼の持ち主だったりして。
saheizi さんらしいオチ、見事です。
裏を返せば、世界史の「嘘」と、どんな意図がその嘘を「歴史」にしたのかを考えると、興味深いかも知れませんね。
何のために歴史を学ばせるか、という歴史を考えれば、それは民衆を御しやすくするためであり、その心を安定させ、国情の憂いをひとつでも少なくなるためだろうと思うからです。
そして、現代の私たちが歴史を学ぶ楽しみのひとつには、どうしてこういう歴史が伝えられたのか、伝えられなかったものは何かを想像することだとも思っています。
ちなみに私も、太子は想像上の人物だと思っています。
昔好きだったマンガで「日出処の天子」(山崎涼子作)というのがあって、
聖徳太子を超能力者で同性愛者として描いていました。
あれは、この説をわかっていたからなのかしら?
なわけはないと思うけど、もともとが嘘なら、
あのマンガもありですね。
>履修しない高校はその辺りを見抜いた慧眼の持ち主だったりして。
うん、きっとそうなんですよぉ~・・・汗。
皆が信じていることが真実なのかも。
谷沢がこの本であげている非在説の根拠についてはあまり具体的に反論されてないように感じました。
専門の学者たちが大論争をしている問題ですからそう簡単にどっちが正しいかを判断することは浅学にはむづかしいことかも知れません。
きとらさんのお勧めに従ってこの問題には深入りせずに書紀の勉強に進もうかと思います。
ご教示有難うございました。
又じっくり読ませて頂きます。