古典との格闘 立川談志「新釈 落語咄」(中公文庫)

「粗忽長屋」から「妾馬」まで20の古典落語を取り上げ梗概を紹介しながら、噺にちなんだ談志一流の見解を展開する。
前に「桂枝雀のらくご案内」を紹介したが、あの本は60編の噺を取り上げていた。
談志の方が一つひとつが長い。噺の紹介もそれだけ丁寧に聴かせどころの会話を再録してくれたりもする。世の中相手に与太も飛ばす。
長いのはそれだけじゃなくて理屈っぽいということでもある。

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この理屈っぽさが鼻について嫌だと思う部分もあるが、「なるほど」と感心するところも多い。

長い時間をかけて磨きこまれてきた古典の伝統の凄さは、師匠たちに教わったとおりに演ずるだけでも大変だ。
ある程度上手に演じれば面白いし、お客も笑ってくれる。
しかし、よくよく考えていくと江戸や明治の時代に骨格が出来上がった噺が現代に本当の意味で理解されるのか。従来の解釈にはおかしなところがないのか?
談志は理屈っぽくトコトン考える。
いい加減なところで妥協した”手直し”をすると古典・伝統の壁に跳ね返される。
これでもか、これでもかと「根問い」を続けていくのが談志流だ。

「粗忽長屋」のテーマは”粗忽”ではなく”思い込みの凄まじさ”だ、「主観長屋」だという。
落語世界のスター・与太郎は”馬鹿な男”じゃなく非生産的な男なのだ。
与太郎はこういってるのだ。
「俺は働かないよ、だからあんまり贅沢はしない。いやそうじゃあない、つまりネ、あんまり喰わないし、働かざるものは喰うべからず、というのなら、俺は、いや、あたいは働かないからあんまり食べない」と。
もっといやぁ、他人に迷惑をかけないのである。
”ありとあらゆる欲望を充たしてやるのが文明”だと思っている現代社会に警告を与えているのが与太郎。
与太郎があほなことを言ったりやったりしているのは、人生を遊んでいる行為なのだ。
しかし毎度いうが如く、与太郎も馬鹿として扱ってきた伝統があるから、オイソレと簡単には、家元(談志の自称)のいうが如き存在に与太郎をかえることができない部分もあり、これらがこれからの落語家が生き残るか、郷土芸能的なものになるかの分かれ道である。
たとえば「金明竹」という噺で店番を頼まれた与太郎が「ホコリが立ったら水を撒きな」と言われ、二階の座敷にホコリが立ったと水ゥ撒いたり、するのは先代金馬が笑いを取るために加えたらしいが、馬鹿な与太郎としなければ無理がある。
その演出法が定着しているのであるが、これらは取っ払うか、これらの与太郎の行為を与太郎の生活の中に消化するか、の二つであり、家元は何とか消化させようと努力している・・いや、あがいているのだ。
ネ、理屈っぽいでしょ。でも分かるでしょ?

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「文七元結」と言う噺。
長兵衛が吾妻橋にきかかると身投げしようとする若者がいる。
引き止めて訳を聞くとお店に届ける50両を掏られて申し訳が立たないと。
生憎?長兵衛の懐には50両がある。
愛娘が博打で身を持ち崩した親のためにわが身を吉原に売って作った金だ。
吉原の店のお内儀に一年貸してやるから借金を返し道具をそろえて働いて返せ、返さないと娘を店に出すと言われたのだ。
長兵衛は娘の分身とも言うべき50両を男に押し付けて帰る。

この長兵衛の心理が実はよく分からない。
家じゃカミサンが着ていた最後の着物を長兵衛に着ていかれて、腰巻も洗ったばかりだから風呂敷でお尻を隠して震えて待っていると言うのに。
若者のことより、我が家族は、おめえはどうなるってんだ。
円朝が薩摩・長州出身の元勲に江戸っ子とはどういうものかを問われて語ったと言うこの噺。
しからば江戸っ子の気性がかくも侠気に富んでいる、人間かくありたいという江戸びいきの円朝のメッセージだろう。
しかし、俺は長兵衛はそんな大したものじゃなく単なるオッチョコチョイだと思う。
力づくででも男をお店につれて言って口ぞえするとか、何も50両くれてやるばかりが解決策じゃないだろうに。
目の前に繰り広げられる事態の切迫に衝動的に50両出した、ってとこか。

談志も似たような疑問を抱いている。
落語ではむしろ不人情を肯定し、非常識が人間本来の姿とする事に合わないと悩んでいる。
長兵衛が何でそんなに博打にのめりこんだのか、判んない、と悩んでいる。

爆笑問題の太田光が後書きで書いている。
談志師匠の舞台を観ていると感じる。
何も男と女が裸で交わることだけがセックスではない。落語もセックスなんだ、と。(略)師匠が、まるで子供みたいに、舞台で脅えている様に見える時がある。(略)
師匠は毎回、古典落語とうまく交われるかどうか、という不安を抱いて高座に上がっているのではないだろうか。(略)しかし、その一方で、師匠が、古典に対して、全幅の信頼をよせているというのも、判る。たとえ、自分が駄目になったとしても、古典は、最後には、絶対に自分をイカせてくれる筈だと、信じきって、落語に抱かれている様にも見える。
漫才をやっている太田君のジエラシーじゃないかな。”古典”に対する。

写真は江戸川橋・地蔵通り商店街
Commented by seilonbenkei at 2006-12-29 23:37 x
太田って談志の弟子だったのですか?知りませんでした。
saheizi-inokori さんは私にとってはアルファーブロガーで、記事はお気に入りに入れて必ず読ませていただいてますが、コメントの難しいものが多くて(笑)ようするに器が違いすぎてついていけんということなのですが。
Commented by saheizi-inokori at 2006-12-30 07:33
seilonbenkeiさん、お久しぶりです。押し詰まりましたね。
弟子ではないと思いますが舞台を一緒にしたり親しいようです。太田君が弟分のようにして慕っているということでしょうか。
器が違う?大きさではなくて色合い、風合いですね。
違って当たり前、人皆違う器を持ってるから楽しいですね。
又どうぞコメントくださいませ。
いいお年を!
Commented by 散歩好き at 2006-12-30 09:52 x
談志さんは根津神社近くにお住まいだとか?saheiziさんのテリトリーです。
Commented by knaito57 at 2006-12-31 17:19
一年ほど前、NHKでやった立川談志『日本の笑芸百選』を録画して何度か見ています。志ん生、金馬あたりから落語を中心に漫才、コントまで古今の芸達者をフィルムをまじえて一気に紹介したものです。談志の情熱と通暁ぶりは大変なもので、あの人にしては抑えて偏見のない論評をしているので貴重な保存版です。私には彼自身の芸をどうこういえませんが、好きな落語家とはいえません。たしかにあの才気はすごいけれど、才走った噺家というのはどうも。山藤章二と親交があるというのだから本物でしょうが、病気をしてからはいただけませんね。
Commented by saheizi-inokori at 2007-01-03 08:43
散歩好きさん、おめでとうございます。彼は根津に仕事部屋があるんだとこの本にも書いてます。まだ遭遇したことはないのですが。
Commented by saheizi-inokori at 2007-01-03 08:48
knaitoさん、おめでとうございます。
実は私も談志はうまいなあと思うのですがなんだか心をゆったりして腹から笑う感じになれないのです。理に落ちるのではないかと思います。自分で天才だと言うけれど私はそうは思いません。
ただし、彼がこの本で言っているようになんの考えもなく”落語ブーム”の中でマンネリ化した古典とか吉本張りのくだらないギャグを飛ばして受けを狙っているようでは落語の将来は危ないなあ。
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by saheizi-inokori | 2006-12-29 17:59 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(6)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori