狸オヤジ 井伏は健在だった 井伏鱒二「釣師・釣場」(新潮社・自選全集から)
2006年 10月 01日
すっかりご無沙汰で、ご隠居に指摘された開高健との釣りをめぐるエピソードなども忘れていた。
30年も前に買ったきりほとんど本箱の飾り状態だった「井伏鱒二自選全集」をとりだしてみる。
米寿を超えた作家が大幅に書き直しをしたということでその是非を含めて話題になった全集だ。中のパラフイン紙の色がすっかり茶色になっている。
小滝橋のご隠居がお尋ねの「福田蘭堂開発・鮎餌釣技法」(開高が井伏に聞いたもの)のことなど分るかも知れないと、第7巻の「釣師・釣場」を読む。
1959年小説新潮に連載されて単行本となったもの。
一気に読んでしまった。
三浦三崎、九十九里、水郷、尾道・鞆ノ津、甲州、最上川、奥日光、笠置・吉野、淡路島、各地を廻りその地の名人と会い釣談義と実践。奥儀が披露される。
井伏はヤマメの大きなやつを釣りあげると”ごとんごとんと”胸がなるのだそうだ。
ある名人に、名人でもそうか?と聞く。
「ヤマメのときは鳴りますね。鯛やヘラ鮒を釣っても鳴らないのに、どうもヤマメのときだけは不思議ですね。雪代ヤマメ、それから青葉ヤマメ。すると、もうそのころは崖の上に咲いてをりますね。岩つつじ、山吹、流れはいい」俺は釣りはしない。
釣師は崖を降りると、体を低くして、淵に近づくにつれてそろそろとしゃがんで行く。ごつごつした岩かげから、ほんのちょっと顔を出して淵を見る。目を、らんらんと光らせてゐる。やがて、さっと振りこむが、糸が頭の上の木の枝にかからないやうに竿先を平に振る。青い水と白く泡立つ堺に餌が落ちる。糸についてゐる赤い目じるしが、ちょいと動く。その途端、釣師の心臓が痙攣を起こしたやうに、ごつとんごつとんと動悸をうちはじめる。
しないが面白い。
特に最後の一編、淡路島の鯛釣り名人”ヒデさん”との船出から釣り始めるまでの描写は大抵の映像が叶わない。
一部を引いてもしょうがないが
餌のエビはまだ勢ひがよかったが、ヒデさんはそれを取替へて、カワセブクロに撒餌を入れながら、声をひそめて云った。「オモリが底についたら、すぐ二つ手繰って、ゆっくり口のうちで七つ数へる。ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ム、ナ。それで、七つ数へるうちに来なんだら、もうあかんのや。ヒ、フ、ミ、ヨ、イ、ム、ナ。ゆっくり七つ数へる」名人を上回る大物のハタを釣った時のことを
海底におけるタヒのずる賢さと敏捷な動作を私は想像した。
大きなハタであった。私は今までにこんな大きな魚を釣ったことがない。としか書かない。
それでいて「大漁幟はないのかね。幟があったら立てようじゃないか」という。目方や長さを計ったと書いて数字は書かない。
魚拓をとれと勧められると
「そんなのは、素人がするさうだね」食えない親父だがなんとも愉快だね。
と私は云った。
尾道、鞆ノ津と二泊もしながら名人の釣り談義をさんざん聞くだけで、寒くて海に行けなかった。そこでもう一泊して福山の郊外・草戸のクリークに行く。
堤に枯れ残ってゐるのを折りとった蓬の茎で蜆を釣る。
文豪はそうして十箇あまりの蜆をハンカチに入れて帰るのだ。
「これは釣りと云へるかどうか。」と書いている。
半世紀も前、釣り人が多くなりすぎたことを嘆いている文章。
今井伏がいたらどう思うか。
なんせ5歳の我が孫が家に来るとひとりで釣り番組を探して見ているほどだもの。
いい日曜日を井伏の旦那、ありがとう。
小滝橋のご隠居の質問の答えはみつからなかったけれど。
福田蘭堂の鮒の手掴みの話とか佐藤垢石の鮎釣の話など、近くはかすめるんだけどなあ。
写真は「チエルノブイリ20年の刻印」カレンダー、10月。ベラルーシ・ヴェトカ地区バルトロメフカ村。避難前には1087人住んでいた村に今は10人未満の老人が住んでいる。
撮影・広河隆一
初版は『厄よけ詩集』、改訂版は『厄除け詩集』と、こんなところにもこだわってる。
身近の井伏ファン、連れ合いは改訂版の『厄除け』、姉は『厄よけ』の初版本、しかもサイン入りを宝物にしてます。
短い詩の何処に加筆し、ムダな箇所を取り除いたのか、二つ並べて見比べてみる。
実際にはしないだろうなあ。面倒くさがりなんです。
井伏のあの「自選全集」、私は7・9・11巻の三冊だけ持っています。金が無くて、全部は揃えられなかった。箱の絵は井伏本人が描いているんですよね。私のも、パラフイン紙が茶色に変色しています。
井伏の文章が好きな人には、それだけで親近感を持ってしまいます。
奥多摩では釣魚料は貸竿代込みで3000円でしたが、食べるだけなら一匹400円でしたので、私は後者を選びました。