登りたい山はどこなの?
2006年 09月 13日
そうだろうなと思うけれど、ちょっと頂けない。
山に登るときに、どの山に登るのかを決めると思う。
エベレストに登るのか、富士山、八幡平、はたまた故郷の里山?
同じ”山”であっても目標によって準備はまるで違ってくる。
地図、装備、訓練、登山ルート・・戦略・戦術すべてが目標とする山によって変わってくる。
どの山に登るのでも”一生懸命”やらなければ頂上にはたどりつけない。
しかし、里山に登るつもりでヒマラヤを目指したら間違いなく失敗する。
登山に例をとれば直ぐ分かることなのに仕事になると分かっていない人・経営者が結構多い。
登りたい山はナンなのか?
自分の・または自分の会社の「あるべき姿」を具体的に示さないままに
「お客様第一」「安全第一」「真心の経営」・・・いろいろ言うけれど、
具体的な目標をいわなければ意味がない。
”一生懸命”やってほしい社員に共通の目標が示されなければ
誰かの一生懸命は誰かの迷惑になりかねない。
抽象的なことしか言わない経営者・リーダーは自ら責任を取りたくないから
具体的なことを言わないのだ。
具体的な目標を言う以上はそのための条件造り(ひと、もの、カネ)にも責任を負わなければならないけれど
コストダウンとかグループ一体経営などと中身のないスローガンに
泳ぐ経営者は自らの目標を明らかにしたくない、またはする能力がないのだ。
こういう人たちの物差しはゼンネンヒ、ほとんどそれしかない。
これでは小泉首相がエラソウにするのもシャーあんめー。
経営者失格だ。
困るのは社員とお客様。
お客様はそんな会社のサービスは見捨てれば済むが社員はそうはいかない。
いずれは経営者にも跳ね返ることなのにそうなるまで分かろうとしない、そうなる前に辞めるからと考えているアホたちにも困ったものだ。
写真は大宮駅で、何処かの坊や緊張して新幹線を見ていた。これは行き先がキチンと決まっているから安心だ。
よく、宗教の悟りを評して「山に登るようだ」なんて喩えまして、「登り口は違うけど、行ったら皆同じ」なんていう話を聞きますが、拙僧的にはちょっと待てよと言いたいところでございます。
だいたい、宗教的な世界がどうして「同じ山」だと前提できるのか?それから、自分の足で上れない人はどうなってしまうのか?(自力とか他力とか)
したがって、最近では法然上人が『選択本願念仏集』で指摘したような「都市の喩え」の方が宗教的な状況に合っているのではないか?と思うのであります。
と、「登山の例」そのものをちょっとだけ吟味してみました。
何かのスポーツにたとえて1、単にルールを覚えて一通り遊べるレベル、2、社内の代表選手になりたい、3、県大会くらいには出たい、・・・7、オリンピックで金メダルを狙うレベル・・
そのどのレベルを考えるかで基礎トレーニングからナニからまるで違ってくるのに、とりあえず”頑張ってみる”、ではプロ経営とはいえない、見たいな事もしゃべります。
ハイキングのつもりで初秋の那須連峰に行き霧に巻かれて恐ろしかった思い出がありますよ。セーター一枚で食料も持たずに行ったのでした。
“安全”ということが一番にないと何をやっても成り立たないと、いつも言われていた気がします。
男の子の頭をナデナデしたい(w
写真の男の子、なんて可愛いのでしょう。きちんと足を揃えているのが大変珍しい。頭もくりくり坊主で着ている洋服の色もいい。よく見つけて撮られたと感心しました。
いるんだぁ~、大宮にもこんなボク。うれしいな。
わが息子もそうでした。大事な時期です。
ところで、いがぐり男の子って、つい、なでなでしたくなるけど、
本人は、すごーくいやなんだそうです。
楽しい思い出できたかなー。
親子からにらまれました。
のじ丸もみんなに触られるのを、ちょっと考えちゃうみたい。
でも、親が触るのには文句言いません。
なので、母は触りまくってます!くくく・・・。役得。
特にスキカルしたては、気持ちいいです。