貧しいけれど輝いていた時代 本田靖春「疵 花形敬とその時代」(文春文庫)
2006年 03月 27日
いまだに彼ほど喧嘩に強かった男はいないと多くのヤクザが証言する。花形の喧嘩は”ステゴロ”、すなわち素手のみ。自らに課した掟だった。喧嘩に勝って儲け仕事にありつこうとか部下を増やしたいというのではなく、ヒタスラ”自分より強いやつはいない”ことを証明するように誰にでもぶつかっていった。弱いものはかばいこそすれ相手にしなかった。インテリヤクザとして当時渋谷に勢力を伸ばしていた安藤昇の下に入る。
安藤組はヤクザの世界の秩序を否定する、アウトローの中のアウトローであった。なかでも、花形のアウトサイダーぶりは際立っていた。彼には安藤組の構成メンバーという意識さえ希薄で、「花形敬」を一枚看板に世の中を押し渡っていたからである。やがて、安藤組が横井英樹・東洋郵船社長襲撃事件をきっかけに落魄・解散の過程をたどる中で、彼は殺される。
色川武大が解説で言うように、花形は単なる粗暴なギャングではなく、優しさ、短気にして隠忍し、意志的でありながら暴発し、執念の鬼かと思うと淡白であるという普通の人間が備えているさまざまな能力・要素をすべて(大振りにではあるが)もってその中で揺さぶられていた。そのことが恐ろしかるべき花形をなんとも愛しいとすら思わせる。”いい男”なのだ。
闇市に象徴される戦後社会の混乱は戦前にない新しい力の台頭を予感させていた。
廃墟と化した東京の貧窮・不安な生活には意外かもしれないが、多くの国民はその内実に”明るさ”を感じていたのだ。
その、可能性をはらんだ混沌の中で筆者を含め多くのインテリ候補生は、まかり間違えば自分がヤクザにでもナンにでもなっていておかしくないようなところに身をおいて生きていた。ホンの小さな偶然とか出会いが、現在に至る道筋を分けた。ヤミ物資を禁ずる法律を厳格に守った判事が餓死した世の中ではある意味では何でもあり、だった。
少々遅れて生まれた俺でさえ、ひょっとしたらヤクザか赤軍派になっていたかも知れないと思うことがあるくらいだ。もう少し度胸があれば、もし特別奨学生なるものになれなかったら、もし誰か手引きする男がいたら・・イフは多い。
日本の復興と共に混乱は収束し、つかの間の”自由”は失われていく。秩序・規制の復活。権力(エスタブリッシュメント)の登場。それはヤクザの世界においても同じ。花形のような純粋暴力系・愚連隊は存在を許されない。政界の暗黒部分と結びつくか、財界のはらわたに食らいつくか。稲川会や東声会の登場だ。
サラリーマンは”サラリーマン”化する。”ポチ”化だ。本田靖春が遺著「我、拗ね者として生涯を閉ず」「不当逮捕」などで告発するポチ化だ。”社会部が社会部でなくなった”読売新聞社に見切りをつけて当時は未開拓なノンフイクションライターの道に飛び込んだ本田が告発するポチ化だ。
花形の青年時代。それは新しい価値観、人生観をめいめいが試行錯誤の中で築きあげていかなければならなかった(それまでは”教えられ過ぎて”いた)という意味で特殊な時代だった。その時代に花形は”純粋”であった。純粋であるがゆえんに異端となったと、筆者は言いたいようだ。
東大生でありながら高利貸しの会社「光クラブ」を興しヤミ金融の疑いで検挙され青酸カリを飲んで死んだ山崎が「生きる支えを、己の”知性”に求めた不完全な理想主義者」だとすれば花形は「肉体にそなわる素朴な”力”を支えとした、より完全な理想主義者」かもしれないという。終戦をはさんで多感な青年時代をおくった筆者も含めて多くの群像を描いて痛ましくも痛快なこの本の最後。
彼を終世の異端として位置づけることにより、そこに仮託して、小さな枠組みの中での安定と引き替えに、良民と呼ばれるわれわれが売り渡した多くのものについて、考え続けたいと思う
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